学会員インタビュー
日本健康教育学会には、健康教育・ヘルスプロモーションを中心に幅広い分野で研究や実践に携わっている学会員の先生方がたくさんいらっしゃいます。
若手の会のメンバーが様々な分野で活躍する学会員の先生方に、これまでのキャリアや若手へのアドバイスをインタビューしてお届けします。
島袋 桂先生 Kei Shimabukuro
【略歴】
2010年より、琉球大学健康づくりプロジェクトLibに所属。2017年、沖縄キリスト教短期大学保育科特任講師。2018年、沖縄国際大学産業情報学部企業システム学科准教授。
━━ まずは、奨励賞受賞のご感想をお聞かせいただけますでしょうか。
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受賞できると思っていなかったので、初めて聞いたときは「間違いではないか」と本気で思っていました。2年連続沖縄から受賞者が出たのですが、その意味でもすごく嬉しかったです。私の場合、地域の方々とやってきたことが奨励賞受賞という形で認めていただけたというのが本当に光栄で、皆様への感謝の気持ちが一番大きいですね。
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━━ これまでのキャリアや、健康教育の分野に入ったきっかけについて教えてください。
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もともとは、健康教育の分野が専門ではありませんでした。ずっとサッカーをしていて、大学院はスポーツ社会学の専門でした。いわゆるスポーツマネジメントやスポーツビジネスの分野が出始めた頃です。当時メキシコに留学していて、メキシコのスポーツ環境についての修士論文を書きました。なので、学術のベースとして健康教育はやってきていないんですよ。
その後もずっとスポーツ分野にいました。最初のキャリアは、沖縄のJリーグのクラブで働いたことです。30歳くらいでそこを退職する際、当時の琉球大学教育学部の金城昇先生から声をかけていただき、研究員になりました。そしてこの研究員時代に、地域の健康教育をするようになりました。最初は管理栄養士の仕事をする気は全くなかったのですが、大学でたまたま管理栄養士の免許を取っていたので、研究員をやれたり、健康教育の分野に入れたりしました。研究者っぽくないキャリアですよね。
こうして、地域の健康教育を始めたのですが、こちらも研究というより、実際に現場に出ていくものでした。市町村の健康づくり事業や介護予防事業を大学が受託して、その予算でヘルスプロモーションを実践するものです。プログラムの作成と実践を行い、最後に評価もしますが、アカデミックな評価というよりは、行政向けの評価でした。ですので、私は研究者というよりも、プログラムづくりや実践者といったバックグラウンドの方が大きいと思います。
そういうことを5年ぐらいやったタイミングで、琉球大学の健康づくり支援プロジェクトが始まりました。このプロジェクトは、将来的には大学から独立して、会社にするという話が出ていたので、ゆくゆくは、私もそこで仕事をするつもりでした。当時は、研究者になるつもりも、大学の先生になるつもりも無かったんです。でも、お世話になっている先生から、論文の執筆を勧められ、仕事の一部として論文を書きはじめました。そうして、5年ぐらい経ったときに、先生から「県内の空きポストがあるので出してみなさい、論文があるから」と言われて、公募に出しました。そうして、最初に採用していただいたのが、沖縄キリスト教短期大学の保育士養成コースでした。そこで、子どもの健康に関する授業や研究をするようになりました。こういったキャリアなので、研究者としての苦労などをあまりお話できないのですが、実践はたくさんしてきています。
━━ 研究者の視点ももちつつ、実践活動を進めることは、とても大変に感じます。
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そうですね。現場でデータを集めて評価をする際、学術的なレベルの評価をしようとすると、地域の方は離れていきます。回答が難しいので、まずやりたがらないんですね。健康教室の前に、30分もアンケートをとったら、もう帰ってしまうんです。次回から来なくなるという場合もあります。ですので、アカデミックな評価をすることは、とても大事だと思っていますが、それを現場でやることの難しさも、常に葛藤として抱えていました。研究結果を発表するときも、実際には評価したデータを見せても良いのですが、ほとんどの調査が倫理審査も通していないようなデータになっていたり、とにかく答えやすい質問表でやっていたりします。そういうものを見せるよりは、やってきた実践の中身や、住民の方の話を出した方がいいのかなと思っています。実践しながら、どう評価していくかというのは、本当に課題ですよね。
━━ 現在の研究内容と今後の展望を教えてください。
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元々は地域の健康教育をメインでやってきました。大学の教員になってからは、最初に赴任したところが保育士養成の大学だったため、子どもの健康に関する研究を始めて、現在に至ります。成人を対象とした研究も行いますが、基本的には子どもが対象です。身体活動を中心に、食生活や睡眠を含めて総合的に調査をしています。
━━━ 子どもの教育に関しては以前から興味があったのですか?
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サッカークラブで働いていたときに、小・中学生にスポーツを教えていた経験もあり、子どもの教育に関心を持っていました。当時は、保育園の頃のスポーツ体験が、将来のスポーツ活動につながるのかという点に、とても興味がありました。今はどちらかというと、子どもの頃の運動やスポーツの体験が、どのように成人期以降の健康につながるのかをよく考えています。
━━━ 先生のご研究では「パートナーシップ」や「地域のつながり」が印象的ですが、これらに関して、沖縄の地域特性が結果に影響していると感じる点はございますか?
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地域にもよりますが、沖縄では、その地域に住んでいる人が全員顔見知りのようなケースがたくさんあり、お互いのことをいつも気にしながら生活しているのが一つの特徴だと思います。助け合いもとても多いです。地域活動も、以前に比べると減ってはいますが、それでも沖縄はまだまだ残っている方だと思います。
━━━ つながりのあるコミュニティというのは、どのくらいの人数で構成されているのですか?
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都心部と地方でも違うと思いますが、大体沖縄の場合だと、公民館単位にコミュニティができているというイメージです。自治会に加入している人たちが中心となって、様々な活動をしており、約100〜150人でコミュニティが構成されています。地域のつながりが強いところとそうでないところがありますが、強いところには強いところなりの難しさがあります。例えば、つながりが強い田舎の地域だと、ウォーキングしたがらない場合があり、それは、近所の人に見られたくないからなんです。歩いていると、「あの人、健康意識高くて、歩いてるよ」といったことを噂されるのが嫌で歩かないことも。そういった場合は、うまくきっかけを作ることが有効です。例えば、イベントを企画して「イベントだからみんなで歩きましょう」という形で、きっかけを作ります。そうして、一旦歩くようになると、そこから先は歩くのが普通という雰囲気を作ることができますね。
━━━ つながりが強い上での難しさもあるんですね。
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変わったことをやると、「あの人はおかしなことを始めたよ」という話が広がることがあるので、うまくきっかけを作ることが大切ですね。健康意識の高い地域は、健康教室をやるとみんながやるようになるんですが、田舎の地域で健康意識が特に高くもない場合は、教室に参加すること自体にハードルがあるので、むしろイベントのような形で実施した方が入りとしてはやりやすい場合もあります。地域によってやり方は様々ですね。
━━━ 実践研究をする上で、地域住民との関係づくりが重要な部分だと思うのですが、島袋先生が関係を構築する際に意識していることはありますか?
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とにかく顔を出すことです。普段から、近くを通ったら公民館に行って、挨拶をするなど。顔を見せるのは、とても大事ですね。正直、地域の健康教育は、コストパフォーマンスを考えると絶対に進まないんですよ。どれだけ泥臭く足を運べるかといった部分があり、効率なんて求めてはダメなんです。要望も無いのに挨拶に行って、一緒に少しだけお茶を飲んで、世間話をして帰るなど、そういうことの積み重ねをしないと受け入れてもらえない地域もたくさんあります。また、健康教育のプログラムを取り入れてもらえるかという点も非常に難しく、「こういうプログラムがいいですよ」という話だけでは、あまり喜ばれないことがあります。地域の人が求めているものをじっくり聞いていかないといけない。ただ、矛盾した話になりますが、要望だけ聞いてもうまくいかないんですよ。なので、しっかりコミュニケーションをとっていきながら、あちらの話も聞きつつ聞き過ぎないということが必要で、さらにこちらの提案もしつつ押しすぎないということも必要です。話をしながら一番いい形を一緒に作っていくところが、苦労する部分でもあり、楽しい部分でもあります。
━━━ 最後に、若手に期待することやメッセージ、アドバイスをお願いします。
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期待することというのは少しおこがましいのですが、もし若手の皆さんが地域をテーマに研究するのであれば、たくさん通って地域のことを知ってほしいなと思います。研究者として入っていこうとすると、最初はどうしても効率重視にやろうとしたくなると思うんです。データを取って、いかに短い時間で調整を済ませられるかを考えがちです。でも、あえてのんびりとたくさん時間をかけて、たくさんコミュニケーションをとりながらやると良いんじゃないかと思います。その方が結果的に、地域の人もたくさん協力してくれるんじゃないでしょうか。結局、1回だけの調査であれば、短い付き合いで良いかもしれません。しかし、良い関係性を作っていると、調査対象が見つからず、こちらが困っているときにも協力してもらえます。一方、向こうに困り事があればこちらも相談を聞くことができるように、お互い助け合える場合もあると思います。大きな研究ではそうもいかないときもあるのですが、ローカルで小さな研究をするのであれば、ぜひ地域の中にどんどん入っていくと良いのではないでしょうか。
2024年ZOOMにて
実践研究をする際の、地域での関係づくりの方法や、地域特性に合わせた研究を行うことの大切さと楽しさを学ぶことができました。(鮫島、小野、村上、金島)
小岩井 馨先生 Kaori Koiwai
【略歴】
2012年松本大学人間健康学部卒業、女子栄養大学大学院栄養学研究科に進学、2014年修士課程終了。2014年から2016年まで、長野県松本市役所健康福祉部健康づくり課に管理栄養士として勤務。その後、女子栄養大学大学院博士後期課程に進学、2019年博士後期課程修了。博士(栄養学)。女子栄養大学栄養学部助手を経て、2022年より厚生労働省栄養系技官。
━━ 奨励賞受賞のご感想を伺ってもよろしいでしょうか。
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この度は、奨励賞をいただきありがとうございます。大変嬉しく、今まで支えてくださった皆様への感謝の気持ちでいっぱいです。
奨励賞をいただいた研究は、中村正和先生はじめ公益社団法人地域医療振興協会の皆様、女子栄養大学食生態学研究室武見ゆかり先生、林芙美先生にご指導をいただきながら、研究計画を立て食事調査等を行い、その結果を初めて学会に投稿し採択いただいた研究で、とても思い入れがあります。この調査は、自治体職員の方、多くの地域住民の方がご協力をしてくださいました。また、調査員として、女子栄養大学食生態学研究室の学部生、大学院生が1週間ほど住み込みで食事記録の聞き取り等に協力してくれました。ご指導、ご協力くださいました皆様、査読してくださった先生方、奨励賞に選んでくださった先生方に心より感謝いたします。本当にありがとうございます。
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人と関わることが好きで、健康教育の道に
━━ 先生のご専門である食や健康教育に興味を持ったきっかけを教えてください。
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食は誰もがどんな時にも共通して関わる、食を通して人と人がつながっているといった点で興味をもっていました。高校生の時に、管理栄養士や栄養士という職業を知り、食を通して人の健康を守る仕事が素敵だと思ったのがきっかけで、今この道に進んでいます。その中でも、健康教育に興味を持ったのは、元々人に関わることが好きだったからです。
━━ 博士後期課程に進学を決めた理由を教えてください。
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修士課程に在籍中、研究室の活動として、地域の方を対象にした食を通した健康づくりの取組等に携わっていました。これらの取組に参加する中で、行政で働きたいという気持ちが高まり、修士課程修了後は、保健センターの管理栄養士として働きました。働いている中で、より多様な指標を踏まえて地域の健康課題をどのように分析したら良いか、地域の健康課題を踏まえてどのように効果的にアプローチしたら良いか等を考えるようになりました。それで、これらの知識やスキルをもっと習得したいと思い、博士後期課程に進学しました。
当たり前を疑うところから超加工食品の研究へ
━━ 研究テーマにUltra processed foods(UPF; 超加工食品)を選択した理由を教えてください。
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約10年前、大学院修士課程への進学時に研究テーマとして「近年の加工食品の利用」に興味を持ったのが始まりです。加工食品は脂質や食塩が多い等の理由から食べるのは良くないと言われるが、冷凍野菜、カット野菜等は当時もあり、加工食品も上手に利用していれば必ずしも悪くはないのではないかと思ったのです。
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先行研究を調べてみると、国外では、Monteiroらが、食品・料理の加工度に基づき、加工食品をUPFも含め4グループに分類するNOVAシステムを提案し、UPFの利用と食物摂取状況や健康状態との関連の研究をされていました。日本では,1988年にNOVA システムの加工食品分類に近い視点を用いた研究結果がされていましたが、この調査は1985年に実施されたものであり、以後、国内ではこうした視点での研究はされていませんでした。それで、UPFに着目することになりました。
様々な視点から考えることを意識する
━━━ 研究計画やリサーチクエスチョンを立てる際に意識されていたことは何ですか。
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様々な視点から考えるようにはしていました。私が研究を始めたきっかけでもありますが、例えば良いと言われているものは本当に良いのか、悪いと言われているものは本当に悪いのかというように、幅の広い考え方をするように意識はしていました。そのため、様々な場での意見交換の場では、賛否両論、どの立場の人の考え方もよく聞くようにしていました。また、研究室では色々な研究や活動に携わる機会を与えていただいたので、積極的に参加していました。例えば、子ども、働き世代、高齢者、幅広いライフステージの方を対象にした研究に関わることができ、こうした機会も、研究計画やリサーチクエスチョンを立てる際の参考になりました。
━━━ 研究を進めていた中で、行き詰ったことはありましたか。またそのようなとき、どう対処されましたか。
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研究を進めていく上で、研究計画や解析方法を考えるときに、行き詰まったことはありました。このような時は、自分で論文などを調べた上で、研究室の武見ゆかり先生、林芙美先生はじめ、研究室の先輩方や同級生に相談をさせていただき、試行錯誤をする中で、解決してきました。改めて振り返ってみても、たくさんの方に支えていただき、今まで進んで来られたと思っています。
様々な分野の人々とつながりを持つことを大切に
━━━ 若手の実践活動者・研究者へのメッセージを伺いたいです。
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研究も授業も大変だと思いますが、若手のうちに色々な学会やセミナー等の場に参加することをお勧めします。そこで、積極的に他分野の方々とつながると良いと思います。学会やセミナー等を通して知り合った方から、何かのタイミングでご連絡をいただく時はとても嬉しいです。色々な方とのつながりを持つことで、研究のみならず仕事にも活きると思います。
━━━ 小岩井先生は若手の会の運営委員長もされていました。若手の会の会員に向けてアドバイスはございますか。
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興味深い企画を様々考えられ運営されているので、継続していっていただければと思いますが、あえてアドバイスするとしたら、他分野、学部生や幅広い年代の方も参加できるような会を更に企画いただけると嬉しいです。
━━━ 来年の若手の会が主催する学術大会企画では、色々な分野の人と交流できるような場にできたらと思っています。ぜひ楽しみにしていてください。
2024年ZOOMにて
若手の会の先輩という立場から、自分たちの将来をより良いものにしていくためのご助言をたくさんいただくことができました。(久祢田・髙野・陽東)
稲山 貴代先生 Takayo Inayama
【略歴】
1983年、女子栄養大学栄養学部卒業。1994年、筑波大学大学院修士課程体育研究科修了。管理栄養士。博士(スポーツ医学)。東京栄養食糧専門学校 嘱託教員、仙台白百合女子大学 専任講師、東京都立短期大学 助教授、首都大学東京(現、東京都立大学)准教授を経て、2018年から長野県立大学 健康発達学部 教授。現在、日本健康教育学会理事、日本栄養改善学会理事、日本健康支援学会理事など。
ご経歴について
━━ まずは栄養や健康教育に興味を持たれたきっかけなどをお聞かせいただけますでしょうか?
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最初から健康教育・栄養教育に興味を持っていたわけではありません。大学の卒業研究は栄養生理学、大学院では運動生理学分野の研究をしていました。社会人を経て大学院に進学したのですが、大学院時代の医学・生理学分野の研究者との交流の中で、彼らにはない私の強みは「管理栄養士」だということに気がつきました。実験研究はとても楽しかったのですが、キャリアを考えたとき、「人が好き」「コミュニケーションはまあまあ得意」という自分の個性をいかすことができる分野として実践栄養学分野の研究に興味がうつりました。私が学生の頃は、栄養教育というと、支援者の経験談のような話が多いという印象でした。私が熱心に勉強していなかったからなのですが(笑)。実践分野を研究として意識したきっかけは、武見ゆかり先生と村山伸子先生が発表された健康日本21の「栄養・食生活の目標設定の枠組み」でした。実に様々な要素が入り乱れる栄養・食生活について、社会も含めて、論理的に説明されている。とてもわかりやすく、目が開かれた思いがしました。女子栄養大学の縁で、日本健康教育学会には設立年に入会していたこともあり、学術大会に参加するようになり、この分野の研究に益々興味がわいてきました。この学会は大学時代からの友人も多く、ちょっとしたおしゃべりの中からも学ぶことが多かったです。公衆栄養学や疫学ではなく、生の人と向き合う栄養教育は馴染みやすく、始めてみたらとても楽しくそのまま続けてきました。
私が大学を卒業した当時は、女性が4年制大学を卒業すると就職が難しいとか、卒業後3年働いて寿退社して専業主婦という時代でした。男女雇用機会均等法が制定されたのは、大学卒業2年後だったと思います。私自身も、キャリアを築くというイメージは持っていませんでした。しかし、楽しいからと専門学校の嘱託教員をやりながら国立健康・栄養研究所で実験をさせていただいていたのですが、ちゃんと就職した方がいいんだろうなぁ。。。と思い始めました。タイミング良く、女子栄養大学の鈴木久乃先生に声をかけていただき仙台白百合女子大学に就職し、その後和洋女子大学の坂本元子先生に声をかけていただき東京都立短期大学に異動し、都立の四大学の統廃合に伴い首都大学東京(現、東京都立大学)の教員になりました。首都大では院生や学部生と一緒に充実した活動をしていましたが、栄養・食品に関する学部・学科がなく、この先どうしたもんかと思っているときに、お茶の水女子大学の赤松利恵先生から長野県で管理栄養士養成課程をもつ公立大学が設立されると声をかけていただき、今に至っています。なんか、流されて気がついたらここまで来ました、みたいですね(笑)。今でも、自身が大学教員であるのが不思議な感じがします。でも、声をかけてくださる先生に恵まれたというのは、とてもありがたいことだと思います。「この道しかない!」と意気込まなくても、人に恵まれれば、それなりに道は開けると思います。誰もが働くことが当たり前の時代になり選択肢がたくさんになると、逆に、自分の進む道を定めにくいと思う人も多くなりますよね。これから就職先を探す方も、御縁を大切に、その場で前向きに楽しくやっていれば、何とかなると思いますよ。
先生がすごく繋がりを大事にしてきたことで、キャリアを築いてこられたというのがとてもよくわかりました。
研究活動について
━━ 先生は、スポーツや成人前の児童、障がい者等多岐にわたる研究テーマをお持ちですが、それらを決めた際のきっかけ・理由などをお聞かせいただけますでしょうか。
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たまたまですね(笑)。主体性がないんです。でも、面白いと思うものへの反応がよいから、進めてこられたのだと思います。
筑波大学大学院ではスポーツ医学のカリキュラムを専攻したので、最初に埼玉県体育協会スポーツ科学委員会の先生からお声がけをいただきました。この委員会に大学院の同級生(社会人)がいたのです。このご縁で、埼玉県の高校生の代表選手やサッカー関係の子どもたち、早稲田大学スキー部などの栄養サポートに関わることができました。スキー部のサポートでは、その当時売り出されたばかりのテレビ機能付き携帯電話で何かできないかと関係者から声をかけていただき、スキー部の合宿で使えるかもしれないとお借りしたら、合宿先が山の中で電波がつながらなかったという笑い話もありました。でも、そういう新しいことへのチャレンジは面白かったです。また、この時の御縁で、国立障害者リハビリテーションセンターの管理栄養士の内山さんとつながりました。内山さんはたまたま都立短大の卒業生で、彼女から「障害に関する栄養って全然わかってないんです。稲山先生は都立大の先生なんだから、そういう研究もしてください」と言われて。調べると、確かに、ガイドや基準がない。「何ができるかわからないけれど、やってみましょう」とお答えしました。そのうち、人が人を呼んで、脊髄損傷者や知的障害のある子どもの健康づくりに興味をもつ人が院生として仲間に加わってくれたり、障がい者スポーツの関係者とのつながりもできたり。看板を掲げていたら、興味を持っている人が集まってきた、つながりがひろがったという感じです。
ある研究への強い思いを持って仕事をしてきたわけじゃないんです。ここでも、なんとなく(笑)。ただ、研究を論文化して情報発信することは強く意識しました。論文にすることで、多くの人がその研究に気がつき、興味をもってくださいます。自身の仕事を活字にする、査読を経て根拠のある情報として国内外に発信する力はとても大切です。
━━ 先生がその時のご縁を大事にされて、すぐ行動に移される姿勢をお持ちだからこそ、たくさんのご縁に繋がるのだと感じました。
次に、先生ご自身の研究における今後の展望についてお聞かせいただけますでしょうか。
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これまでいろいろ仕事をしてきましたが、研究成果を社会に還元するところがまだ十分ではないと思っています。もちろん、調査や測定のたびに、協力いただいた方へのフィードバックはしてきました。研究成果に基づいたリーフレットを作成し当事者団体を通して発信もしてきました。でも、まだまだ研究者目線だったんですね。
私の共同研究者の一人が視覚障害のある方たちを対象とした健康づくりの研究をしています。その研究では、フィードバックのプロセスを当事者の方にも加わっていただき丁寧にすすめられていました。成果が目に見えてくると、当事者や関係の方々の協力度が格段に上がってきたんですね。その様子を間近にみて、「あっ、私は今までここまで付き合ってきていなかった」って、すごく反省しました。当事者の方に、自分ごととして感じ取っていただけるようなやり方ですすめる必要があります。なので、これまで以上に、社会還元についてしっかり考えて取り組もうと考えています。ただ、定年まで残り2年、終わらないですよね(笑)。
それはぜひ、若手が引き継いでいくという形でやっていきたいですね。
先生の今の話を聞いて、私もインタビュー等の研究の中で、対象者の方との距離を感じるような場面があったことを思い出しました。社会還元のために研究を行う時、対象者の方に自分ごととして受け取っていただけるか、という視点が必要ですね。
研究以外の活動について
━━━ 稲山先生は、研究活動以外に、学外での活動も精力的にされている印象です。何か原動力があるのでしょうか。
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頼まれたから、あっ、いえ、頼んでいただいたから、ですね(笑)。
学外の方との出会いや協働は、気づきや学びが多く、何より楽しいと感じるから続けられているのかもしれません。出会う人との会話って、すごく楽しいです。自分とは異なる社会で生活や仕事をされている人たちなので、学ぶこともとても多いんですよ。例えば昨年、島しょ保健所の仕事で三宅島に行ったときは、大噴火による全島避難の後の見事な復旧状況に感激しました。戻られた島の方たちだけでなく、内地から移住してこられた方も多い。すごくいい経験をさせてもらいました。
また、都立の大学に所属していたことも大きいと思います。都立短大から一緒の尊敬している先生が、「都民の税金」「都立大の教員として」という言葉を時々口にされていて、公的な機関の教職員という意識が育まれたと思います。首都圏や23区には大学がたくさんあって、行政の会議などでも、有識者として大学の先生に参加してもらうことは、容易にできます。でも、地域によっては人探しが難しいところもあります。私の場合は、都立の大学所属ということで、意識的に、奥多摩地域や島しょ地域に行きました。今は、私が担当している仕事を若手にバトンタッチしています。
━━━ 「頼まれたから」「お声がかかったから」というお話が、今まで何度か出てきたかと思います。そのようなとき、迷いがあったり、自信がなかったり、ということは今までなかったのでしょうか?
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私はすぐに返事をする方で、大体断らないです。日程が合わないから無理ということはありますけど。「え〜私でできるんでしょうか…」というのは、あまり言わない。たぶん、お世話になってきた先生方の影響だと思います。彼らから「声をかけてもらってなんぼ」「頼まれるうちが花」「来た話は断るな」と言われ続けてきました(笑)。私ごときが断っちゃいけないんだと。だから、迷っている時間はもったいないですね。
もちろん、自信満々で引き受けているわけではないです。でも、能力はやることによって磨かれます。最初はうまく会議をしきれなくても、やり続けていけば能力が身についていきます。ちょっと躊躇してしまうという若手には、「頼む側は、20代の貴方に60代の大ベテランの能力を求めているわけではない。期待しているのは、今の貴方の発想や発言。だから今の貴方の力で仕事を積んでいけば良い」とお伝えしたいです。
━━━ 島しょ地域における栄養・食生活ネットワークのお話をもう少し伺います。実際に足を運び、島の方とやり取りをする中で先生が感じた、島しょ地域の現状や課題について、ぜひお伺いしたいです。
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健康に関する課題は、基本的には、他の地域と大きな違いはないと思います。行政の方のボランティア精神も旺盛で、村民の横のつながり(顔がみえる関係)は良好です。それより、これまで行った大島、新島、八丈島、三宅島などに共通の課題と考えるのは、都から派遣される職員が数年ごとに変わることです。診療所の医師も変わる、保健所長も変わる、管理栄養士も変わる。変わる度に「初めまして、こんにちは」となる。島に赴任される方はボランティア精神があって、その地域に尽くしたいと考えています。ただ、文字に起こすことができる仕事は引き継げても、信頼関係などの形にならないものは簡単に引き継げないですよね。島には(都の職員ではなく)島の健康・保健・医療に係わる専門職の方がいます。その人たちとうまく連携できる仕組みが継続されるとよいですね。
━━━ 最初に島との関わりを持たれたきっかけは、どのようなことだったのでしょうか?
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都立短大に異動したとき、公衆栄養について、東京都のベテランの行政栄養士の方たちに多くのことを教えていただきました。それまで実験をやっていたので公衆栄養行政について全然知らなくて。最初に交流をもったきっかけは、彼らの自主勉強会に参加したことだったと思います。そのときに名刺交換したベテランの行政栄養士が島しょに派遣されたときに、声をかけていただき、足を運ぶようになりました。当時は、島しょに行く方はベテランが多かったのですが、今は、若手が積極的に島しょに赴任されているんですね。彼らが自然に島暮らしを楽しんでいる姿に、時代の変化を感じました。とてもフレッシュでよい風景でした。
━━━ 勉強会でのご縁が繋がっていったということなのですね。人とネットワークを作っていく上で大切なことや、先生が意識されていることをお伺いできますでしょうか?
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会うこと、話を聞くこと、会話を楽しむことです。メールでのやりとりには限界があります。自分の意志を伝えるのに、メールだと2~3割しか伝わらない。電話で6~7割。会ったら問題なく意思疎通ができます。ただ、オンラインは、このインタビューのように遠方の人たちと集まることができるという大きなメリットもあります。うまく組み合わせて、コミュニケーションをすすめることができるとよいですね。
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それから、「自分の行動」を示すことですね。学生たちに、学会や卒論・修論・博論の発表のときにいつも言っているのは、「聞いている人はあなたが勉強したことを聞きたいわけではない。あなたが何をやったか、あなたが何を考えているかを知りたいと思っている」ということです。「私はこれを知っています」では人の心は動きにくい。相手もそれを知っているんだから。それより、「へぇ〜、この人はこういうことをやっているんだ」「この人おもしろそう」「この人の話をもっと聞きたい」と思ってもらえると、他者から大事にしてもらえます。人は行動で評価されます。教育講演、シンポジウムなどを聞いていても、その人が何をやってきたのか、その人の人となりがわかるような話って、すごく面白い。それはどの分野でも同じだと思います。
学術大会に向けての思い
━━━ 今回の学術大会のテーマは「ライフコースアプローチによる包括的な健康づくりの展開」ですが、このテーマに込めた思いをお聞かせください。
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まず、「コース」という言葉を大事にしています。「ライフステージ」というと、ステージごとに分かれた話のように受け止められがちです。人が生まれてから死ぬまでには、その人生の中でさまざまな身体的生理的な変化があり、さまざまなライフイベントがあります。そして、その時間の流れは連続しています。20年以上も前からテキストでは、「ライフコース」という言葉が使われています。健康日本21(第三次)にも「ライフコースアプローチ」という言葉が出てきていることもあり、今いるところからその先の見通しをたてるという意味もこめて、テーマとしました。今回、テーマが長くなるので入れなかったのですが、「コミュニティ」も重要なキーワードだと考えています。
━━━ どのような雰囲気の学術大会にしたいと考えていらっしゃいますか?意気込みをお聞かせください。
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「ここに来てよかった」。そう思ってもらえる学会にしたいです。企画で意識したのは2点あります。一つ目は、若手の活躍している姿をみていただくこと。二つ目は理論や知識を実践活動につなげることができる企画とすることです。
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今回、子ども、成人、高齢者をとりあげ、その企画や演者の多くに本学会の奨励賞を受賞された若手に加わってもらいました。私は、この学会の運営に理事として携わってきましたが、奨励賞受賞の若手が活躍している姿はとても頼もしい。ベテランと若手が「よろしくね」「まかせてください」というやり取りができるのも、この学会の人と人との距離が近いという強みですよね。
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また、企画も、教育講演からシンポジウムに、シンポジウムから本学会活動の発展につながるよう工夫したつもりでいます。昨年12月、日本栄養改善学会 関東・甲信越支部会の支部学術総会を長野県立大学で開催しました。この時は、長野県立大学大学院研究科とのコラボ企画として、ナッジに関する教育講演とそれに続くワークショップを実施して、参加者の方から好評価を得ました。今回の学術大会でもワークショップを取り入れています。「学びました」「知識は増えました」にとどまらず、着実に次の一歩につながるような学術大会にしたいですね。地方での小規模開催だからこそ、失敗も許されると考えているので、若い人の活躍の場になるとうれしいです。
若手へのメッセージ
━━━ 最後に、若手へのメッセージやアドバイスを先生のお言葉でお聞かせいただきたいです。
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「顔の見える関係」というのは、ますます大事になってくると思います。顔が見えるからこそ、自分の心情を理解してもらえます。信頼関係があるからこそ、電話やライン一本でコミュニケーションがとれるような関係がいかされます。「どうしたらいいですか?」「次、何をやればいいですか?」ではなく、「自分はこう考えているが、あなたはどう思うか」という会話ができるようになると、仲間が集まってきます。失敗したらあとで反省すればいい。人との議論を重ねていくと、研究はとても楽しくなります。10年、20年と手間と時間をかけ、自身の研究ワールドを築いていってください。
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あと、私がすごく後押しされた言葉が2つあります。一つは、「管理栄養士として一流でありなさい。そうすれば他の分野の一流の人と一緒に仕事ができるから」。いわゆるお勉強があまり得意ではなくコンプレックスが強い私にとって「管理栄養士として一流」という言葉に救われたことが多々あります。もう一つは、恩師からの「人間死ぬまで発展途上人。だから、学び続けなさい」。この言葉は、私の教え子にもたびたび口にしています。この二つは私にとっての信条です。若手は若手で、自分の行動や経験から得た信条をもつことができるとよいですね。
2024年ZOOMにて
これからキャリアを築いていく若手の背中を押すような、熱い言葉をたくさんいただき、人とのつながりを大切にしながら一歩ずつ歩んでいこうと思いました。(追分、大内、谷内、頓所)
喜屋武 享先生 Akira Kyan
【略歴】
2019年琉球大学大学院保健学研究科にて博士(保健学)を取得。2019年沖縄女子大学短期大学特任助教、2021年神戸大学大学院人間発達学研究科助教を経て、2023年より京都大学大学院医学研究科特定助教。
━━ 奨励賞の受賞おめでとうございます。お気持ちをお聞かせください。
- 最初に聞いたときには率直に嬉しかったです。研究者としてはまだまだなので、同時に恐れ多いなという思いもありました。
広く子どもたちの健康づくりに関わるために
━━ 研究の道に進むことを決めた時期やきっかけを教えてください
- 進学を決めたのは、大学4年生のときです。大学生の頃は教員養成課程で、保健体育の教員を目指して勉強をしていました。教育実習に行くと、目の前の子どもたちと向き合って非常にやりがいのある仕事だと感じました。しかし、それと同時に、小中高の教員として働くと、いずれかの限られた校種の子どもたちの発達しか見ることができないので、それは少し残念だなとも思いました。より広く子どもたちの成長や健康に携わることができる仕事に就きたいと考えたときに、ちょうど卒業論文に取り組むようになり、研究って面白いなと感じたところから研究者を目指すようになりました。
━━ 卒業論文でも子どもの研究をされていたのですか?
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そうですね。当時はライフスキルの尺度開発を卒業論文のテーマとしていました。周りはスポーツや運動生理学をテーマとする人が多い中、全く違う研究をしていました。私は小学校4年生から大学院生までずっと野球をしていたのですが、長くスポーツに親しんできて良かったと感じています。何が良かったかというと、人との繋がりができたこと、野球を通して人として成長させられたことです。スポーツそのものが上手になることも確かに大事ですが、それよりも運動やスポーツが持つ、人生をより豊かにしてくれる力のような社会的な価値を強く実感し、魅力を感じていました。私自身は野球に育ててもらったと感じていますが、そもそも、人としての“成長”とは何だろうとか、より良く生きるとは何だろうと考えていました。より良く生きるということをよく表現してくれる概念として、ライフスキルに興味を持ちました。ライフスキルは、スポーツだけでは絶対に説明できないと思うので、スポーツも包括するような健康増進や発育発達に関わることを勉強していました。
子どもの健康やwell-beingを守れる社会に
━━━ 運動やスポーツの枠を超えて子どもの健康づくりについて考えられているのですね
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私自身は長くスポーツを行っていましたが、人口集団で見れば一部の人しかスポーツをしていません。それを強く推し進めることはなんとなく違うかなと、大学生ながら考えていたと記憶しています。研究の道を進んできたなかで、“子どもの”というのが私のキーワードです。やはり子ども時代の環境や経験というのは、後の人生を大きく左右しますし、大人になってから働きかけるのは大変なことも多々あります。子どもの健康やwell-beingを規定する心理社会的な要因とは何だろうか、社会はそれをしっかり守っていけるような体制になっているのかということにずっと問題意識を持っています。それを考えていくにあたり最適であったために、学校保健や社会疫学という現在の専門分野に行き着きました。
現在の研究内容と今後の展望
━━━ 現在取り組んでいる研究内容などを教えてください
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今取り組んでいる研究は、広く、子ども・青少年の健康・well-beingに関わる社会的決定要因を特定すること、具体的にはヘルスプロモーティング・スクールに関することです。包括的な概念で、マクロ的、ポリシー的な枠組みですが、私の問題意識を非常によく表現してくれている概念だと認識しています。
まず、私のモチベーションは、子どもの発育発達やよりよく豊かに生きることをどう説明できるのか、どうプロモーションしていけるのかにあります。ヘルスプロモーティング・スクールは、子どもの健康増進を学校にいる教職員のみではなく、学校を中心に地域や家庭を巻き込みながらプロモーションしていく考え方です。日本ではあまり浸透していませんが、WHOが提唱しているので、すでに世界では広まっています。諸外国ではヘルスプロモーティング・スクール、身体活動を中心とした健康増進に関するプログラムの開発や考案がされており、それを日本でも出来ないかということで研究として実施しているところです。
現状、日本は学校保健の制度が素晴らしく、学校で行われる保健に関連する活動は教育活動の様々なところに散りばめられており、学校全体で子どもたちの健康を増進していくことが明文化されています。ただ、それらがうまく具現化できていないことに課題や問題意識を持っており、研究を進めています。諸外国では身体活動を中心とした様々な取り組みが行われていると申し上げましたが、私も日本における、ヘルスプロモーティング・スクールについて身体活動を中心として考えています。まずは評価項目について検討しています。ヘルスプロモーティング・スクールの枠組みで考えると、様々な健康関連アウトカムが必要で、かつ、教育的な面も評価をしていくべきとしてロジックモデルが立てられています。体育と学力の関連がある、健康増進が学力にも寄与することは、エビデンスが蓄積されつつあるため、体育や健康を促進していくことは間違いないはずです。しかし、なかなか、枠組みに則った評価や取り組みがなされるという現状ではないため、この課題に一手講じられたらと日々研究を続けています。
— 今後の展望を含めて教えてください。今後、日本の教育システムでどのようなアクティブレッスンプログラム(以下、ALP)に近いプログラムや授業を開発することで、日本の子どもの身体活動量を増やすことができると思うか先生のお考えをお聞かせください。
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私の価値観だと、身体活動量を増やすことは手段であり、目的ではないと思っています。活動量がどういう意味を持つのかを考えたときに、子どもの活動量が高いことは、とにかく活き活きしていることを意味していると思います。ALPも、活動量を高めることそのものが重要ではないと考えています。ドリル的な勉強をするのに、そもそもどうして座ってなければいけないのだろう、面白くないことをさせられて嫌じゃないかと思うわけです。だけど、やらなければいけないからやるし、学習規律を整えるためには、座ってやりなさいという指導をするしかない。本当にそれしか手段はないのかと考えたときに、体を動かしながら勉強ができるALPが有効なのではないかと考えました。運動をすると一過性でも認知機能が高まると報告されています。運動することによって認知機能も高まるし、かつ勉強もできる、本当に理にかなっていると思っています。学習の進行も妨げずに、活動量も担保できるし、楽しい。この3セットを実現できるという点で、ALPは非常に画期的だと思っています。
ただ一方で、日本健康教育学会誌にレビュー論文を掲載いただき、実際にこういうのがいいと学校に紹介したとしても、様々なハードルがあり、実践までは到達しづらい現状があります。そこが非常に難しいところで、これをどうしたらいいかと考えると、草の根活動しかないと思っています。いかに健康を増進していくことが学力や、様々な希望につながるかということを伝えていくしかないのです。詰まるところ、ヘルスプロモーティング・スクールの枠組みに立ち返りますが、それなりに何らかの理論枠組みベースで、しっかりと評価をしていくことが重要だと思っています。それは、単にアウトカムの評価だけではなく、アウトプットに対しても、どのような理論をベースにして作り上げたプログラムなのか、プログラムの理論に基づき、活動自体について何ができていて何ができてないのかを評価していくことが重要なのではないかと思っています。これが現場だけで実践できるといいですが、難しいと思うので、行政のレベルで提言をしていくことも、同時進行でできるといいと思っています。行政の上のレベルでエビデンスを残すこととアドボガシー政策に何らかの提言を示していくということ、そこに近い形で仕事をすることは、何かを変えていくときには大事だと考えています。
今、教育委員会のある組織と一緒になって研究を進めています。ヘルスプロモーティング・スクールの枠組みに準ずる形で、教育、政策的な事業を評価していく研究です。行政と一緒になって子どもたちの健康増進をすることを今後も考えています。
若手に対するメッセージ
— 「若手に期待すること」などメッセージをよろしくお願いします。
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特に今大学院に通われている皆さんには、自分の主体性を大事にしてほしいです。大学院生として研究室に所属すると、研究室が持っているデータを使う形や、研究の一部を受身的にやるような形が多いと思います。それが悪いということではありません。そのような中で、自分にとって何が重要か、何をやっていきたいかというところは、常に求め考え続けることが、重要だと思います。大学院生の頃、業績を作らないと、と焦っていたとき、師匠である高倉実先生(現 琉球大学医学部 教授)は「粛々とやれ、やるべきことをやっていれば絶対誰かが見ているから」と教えてくださいました。主体性や自分の意思を大切に、やっていることに自信を持ちながら、コツコツやっていくことが、近道になると考えますので、ぜひ頑張ってほしいと思います。
健康教育学会の奨励賞に関しては、高倉先生に審査の基準についておたずねしたところ、まず論文の新規性が重要であること、学会活動への貢献として査読をすることや、他の学会での受賞歴などが審査されると伺いました。非常にフラットに審査をしてもらえるので、皆さんが奨励賞を狙えます!ぜひ若手の皆さんは、頑張ってそこを目指してください。
最後に、宣伝となって恐縮ですが、大学院生・ポスドクを募集しています。研究テーマは、概ね次のとおりです—1)青少年のヘルスプロモーション研究、2)青少年の健康の社会的決定要因の特定、3)大規模データを用いた国民の身体活動推定とその社会的・生態学的決定要因の特定—ご関心のある方はご一報ください。
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E-mail: kyan.akira.8h@kyoto-u.ac.jp
子どもたちの健康やwell-beingに対する先生の想いにふれ、研究をする上での大切な考え方を学ぶことができました。(鈴木・中川・細川・吉井)
今後はシステムづくりやまちづくりを
━━ ご自身の研究テーマや社会課題などについて、中村先生が今後取り組みたい、または取り組むべきだとお考えの課題は、どのような点でしょうか。
- たばこについては15年間、厚労科研の研究代表者をやってきて、もうやり尽くしたという感じもややあります。問題はまだまだ解決していないのですが、一人の人間があまり長くやっていても仕方がないので、7年前から希望してきて、2022年度からようやく後継の人に引き継ぐことができました。たばこの問題はこれからも、もちろん重要です。たばこ対策の日本の最後のボスキャラは、たばこ事業法です。わが国においては、この法律を改廃することが根本的な対策につながります。たばこ事業法は、財務省の旧大蔵省の役人が作った法律で、たばこ税収の確保とたばこ産業の健全育成を目的としており、国民の健康は全く視野にないんですよ。そういう事業法を作ったがゆえに、未だに財務省が所管して、厚労省が中々たばこ規制を進めることができない。そこを変えることが、大きな問題として残っており、何とかしたいと思っています。
- それとは別に、私がやりたいのは、大きく言えば社会問題解決のためのシステムづくりです。日本の保健医療システムを上手く使って、禁煙のための効果的な介入システムをつくるとか、フレイル予防のための社会環境を整えるといったことに興味を持っています。例えば、禁煙支援・治療でいえば、保険適用されたとか、オンラインでも治療が認められるようになったとか、特定健診・特定保健指導の第二期から健診当日からの喫煙の保健指導が努力義務化されたとか、個別の制度は整いつつあります。けれども、全体をつないで、禁煙を勧め、やめたくなった人がスムーズにたばこ離れができるシステムは出来ていません。厚労科研の研究班で政策提言のファクトシートを作成しています。都道府県で関心があるところで、このシステムづくりの実証実験が出来ればいいなと思っています。
- また、数年前からフレイル予防にも取り組んでいて、その地域に住めば自然とフレイル予防ができるような街づくりができないかなと考えています。全国的には市町村等が中心となって通いの場でフレイル予防教室を開催する取組が実施されていますが、それだけでは、高齢者の1割程度、集中して実施した地域でも3割程度しかリーチできていません。買物支援も含めて、その地域の高齢者が比較的容易にお出かけをして交流ができる社会環境を整えるためには、民間事業者の協力を得る必要があります。これまでの助け合いの仕組みだけでは限界があるんです。今、関わっている例では、交通事業者や美術館が組織としてフレイル予防に取り組みたいということで、職員の方にフレイル予防の研修をやっています。それぞれの地域の交通事業者や商店、スーパー、文化施設、金融機関などがそれぞれの仕事の中にフレイル予防の取組を組み込んでもらえると、地域としての広がりをもった取組になり、リーチやインパクトが期待できるし、関係者の相互のつながりも構築できるので、事業の発展性と継続性が期待できると思います。
リアクティブとプロアクティブ。
プロアクティブな仕組みづくりを
- リアクティブとプロアクティブという言葉があります。禁煙の世界では、結構よく使われています。プロアクティブとは、プログラムを提供する側が主体的に働きかけることです。私の大好きな言葉です。例えば、健診や医療で患者さんに医療従事者が禁煙を勧めることがその例です。一方、禁煙外来はその逆で、リアクティブなプログラムになります。実際には、両者をうまく組み合わせて社会に提供することが必要となります。
フレイル予防でも通いの場のプログラムは高齢者の参加を待って行うのでリアクティブです。それをプロアクティブにするにはどうすればいいか。さきほど住めば自然とフレイル予防ができるような街づくりについて触れましたが、高齢化が急速に進む人口減少社会においては、社会問題の解決を自助、互助、公助、共助というこれまでの4
つの助け合いの機能に頼るだけではなく、民間事業者の力の参画を促して、プロアクティブな仕かけや仕組みを構築することが必要です。
若手の素朴な疑問
━━━ 先生は情報収集をどの様な手段でされていますか?
- 昭和の時代の古い情報収集法と思いますが、最近のReview Paperを探して、全体を把握し、必要に応じて引用されている論文を読みます。介入研究であればコクランをチェックします。良い論文のイントロにこれまでの研究の経緯がコンパクトにまとめられています。何がわかっていて何がわかっていないのか、短時間で把握することができます。あとは公的な報告書ですね。海外の公的な報告書を読むことです。そのエグゼクティブサマリーを読めば、研究で明らかになったことや今後の課題が把握できます。
━━━ たくさん論文を書くコツはありますか?
- 僕はそんなに沢山論文を書いていませんが、大切なのは論文の内容が研究の発展や社会にどう役に立つのか?そこを考えた方が良いです。論文を書くことの意味、論文がどう活用されるのかまで考えて書いた方が良いと思います。データがあるから書くというのは目的が違うと思います。
学術大会への想い
━━━ 学術大会のテーマ「エビデンスと実践のギャップ」のギャップはどこにあると思いますか?また社会実装に何が必要だと思いますか?
- たばこの健康影響は20世紀の疫学研究の最大の知見です。私ががんの疫学研究を行っていた1980年後半は、肺がんの組織型と喫煙の関連がホットな話題でした。私はそのケース・コントロール・スタディをやっていました。こうした観察的な疫学研究に取り組めば解析結果が出て、論文にできるんです。しかし、研究成果が積み上がっても、それだけでは人々は健康にも幸せにもはなれません。その原因であるたばこに向き合い、それを何とかしなければなりません。リスク評価だけにとどまらず、リスクマネジメントとしてのたばこ対策の実践につなげることが重要になります。そこに「エビデンスと実践のギャップ」があるわけです。政策がないから実践活動が広がらないこともありますし、政策にはなっているけれども現場の実践に繋がっていないこともあります。つまり、問題によって研究成果の社会還元のプロセスのどこにギャップがあるのかは違うのです。今回の学術大会では、そのギャップを確認し、それを埋めるために、健康教育、ヘルスプロモーションとして何ができるのかを考えたいと思ったわけです。どうしたらギャップを解決できるのかを考える必要があります。政策化のためにアドボカシーも必要です。自分達でアクションリサーチをする必要もあるかもしれません。政治家に対するロビイング活動も必要なことあります。ひょっとすると、たばこ事業法を改廃するために、たばこ問題に対して思い入れがある総理大臣が必要かもしれませんね。健康教育・ヘルスプロモーションの発展にむけて、学会員みんなで考える必要があると思い、このテーマにしました。そもそも「健康教育やヘルスプロモーション」は何のためにあるのか?それも含めて学術大会で考えたいと思っています。
若手へのメッセージ
━━━ 最後に、若手の実践活動者へのアドバイス、メッセージをお願いします。
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「葦の髄から天井を覗く」という諺があります。すごく狭いところから見ても、全体は見えない。視野が狭いことのことわざです。しかし、実は一つのことに徹底的に取り組むことの良さを表している諺でもあります。若い人が幅広くさまざまなテーマに取り組むこと、それも良いことだとは思います。ただ、その中でも自分のライフワークになるようなテーマを一つ持った方が良いと思います。テーマを持ち、掘り下げていくことが大事です。私は「たばこ」を通じて、ミクロの視点としての行動変容の理論・モデル、メゾの視点としての対象者の主体性を尊重したカウンセリング技法や教育プログラムの開発・評価・普及、そして、マクロの視点としてのヘルスプロモーション、特に環境整備の重要性と方策について学び、学会などと協働して政策提言までやってきました。一つのテーマを追究することで、課題が異なっても応用可能な考え方の枠組みを修得することができるように思います。若手の先生方へのもう一つのアドバイスは、自分で進んで汗をかくことです。経験は裏切りません。研究にしろ、実践にしろ、自ら進んで現場に出て収集したデータと現場の人と一緒に取り組んだ経験が自分の実力となり、物事の本質的な理解につながると思います。これからの若手の先生方のご活躍を期待しています。
今後、健康づくりのために社会で必要となる仕組み、それに向けた様々な視点や考え方を学びました。次回大会では、「エビデンスと実践のギャップ」についてさらに考えを深め、今後の研究や実践活動につなげていきたいと感じました。中村先生が大会長を務められる学術大会に、是非ご参加ください。(大内・岡田・福井)
中村正和 Masakazu Nakamura
【略歴】
1980年、自治医科大学卒業。医師、労働衛生コンサルタント、社会医学系指導医・専門医、日本公衆衛生学会認定専門家。1980年より大阪府医師職員として35年間勤務後、2015年より、公益社団法人地域医療振興協会(地域医療研究所)、ヘルスプロモーション研究センター、センター長に就任。厚生労働省循環器疾患・糖尿病等生活習慣病対策総合研究において研究代表者を15年間務め、たばこ政策研究に従事。研究成果をもとに禁煙治療の保険適用、たばこ価格政策、健康日本21における喫煙の数値目標の設定、特定健診における禁煙支援の強化等の政策実現に貢献。公職として厚生科学審議会専門委員(健康日本21(第二次)推進専門委員)、厚生労働省国民健康・栄養調査企画解析検討会構成員、厚生労働省スマート・ライフ・プロジェクト評価委員などを歴任。
医師を目指したきっかけ
━━ 医師を目指されたきっかけをお聞かせいただけますでしょうか。
- これがきっかけということは、2つあります。1つは「赤ひげ」という映画です。黒澤明監督で、三船敏郎が赤ひげ先生を演じていました。どこの映画館で観たかも憶えているくらい、鮮明に記憶に残っています。それを観て、医師というのは素晴らしい職業だなと感じました。おそらく小学校年生、歳の春か夏くらい、そんな季節感もまだ残っています。
- もう1つはそれより前のことで、私の父の妹が医師に嫁いでいて、その方がウイルスの研究をされていた方だったんですね。大阪大学の微生物病研究所と、大阪府の公衆衛生研究所で仕事をされていた方でした。小さい頃から、よく夏休みに遊びに行っていたので、その影響もあったかと思います。でも、やはり「赤ひげ」の影響が強かったんじゃないでしょうかね。
━━ 当時11歳で、強く印象に残ったということだったのでしょうか。
- 患者さんを助ける、困っている人を救うという仕事、医師の仕事ってわかりやすいじゃないですか。病気になった人の命を助けていこうという。そこに「赤ひげ」は、今でいう社会的な処方というか、経済格差、健康格差の課題があり、より困っている人を救うという映画だったので、子どもながらに、感銘を受けたのかなと思います。
━━ では11歳の頃から、医師を目指すことを決められて、ずっと歩まれていったという形でしょうか。
- そうですね。そのあとは中学校、高校と進んでいきましたが、受験勉強は僕らの時代あんまりしませんでした。父も母も体育会系の人で、父は戦前戦後と国体のテニスの選手だったんです。ですから結構スポーツ一家で、毎年お正月は家族で長野や新潟あたりのスキー場、妙高や志賀高原なんかによく行きましたね。僕も運動が好きで、医師を目指すわりには、中学では平日は軟式テニス部、週末は野球をやると、そういう感じでした。
- 高校からようやく、周りの同級生も勉強しているし、医師になるなら勉強しないとダメと担任の先生に言われて。で、真面目に勉強し始めたというところです。
救急から公衆衛生の道へ
━━━ 医師になられたあとは、実践現場で働かれていた時期もあったのでしょうか。
- 卒業して2年間は、当時の大阪府立病院、今の急性期医療センターで初期研修を受けました。その当時は4年間研修ができるということだったので、2年間、そこで臨床研修を行って、後半の2年間は成人病センターの疫学部門で勉強しました。
- 研修後は実は、救急医療に行こうと思っていたんです。自治医大は、僻地医療に従事する医師を育てる大学です。でも大阪は僻地がないので、大阪府が「僻地」を拡大解釈して、医師が定着しない分野を大阪の僻地としたんです。今でも解決していないですけれども、救急医療と、それから保健行政(保健所、大阪府庁、関連の公衆衛生の研究部門)などが、当時の私たちの「僻地」。そこで、私は救急に進もうと思って、小児科主体で2年間勉強し、早ければ3年目から、大阪の千里救命救急センター(日本で最初の高次救命救急センター)に行って、初期研修後はそこで働くということになっていたんです。既に所長にも挨拶もしていたんですけれども。実は初期研修のとき、人生が大きく変わる転機がありました。
- 研修医として初期研修をやりながら、先輩の引き継ぎの研究をやったんです。当時トリアージ、つまり選別搬送の必要性が言われ始めた頃だったんですけれど、実際は救急隊がきちんと所見をとったりすることは、ほとんどできていなかったんです。そこで、救急隊が観察できるバイタルサインや所見でいかに重症患者を選別して搬送できるか、というリサーチクエスチョンを立て、スコア方式の、疾病救急指数というのを開発しました。実際1ヶ月間、大阪市内で運ばれる全救急患者に、救急隊員がそれを使ってチェックして、到着時に医師に重症度を判定してもらって1週間後の予後を調べるという検証を行いました。大阪市の消防局本部にかなりの数の救急隊員を集めて、調査の説明会をやったりしながら。もともと大阪の自治医大の卒業生は学生時代から春夏休みの時期に1週間の研修を6年間受けていたので、卒業してすぐにそういう研究をする準備ができていたんですね。
- これをやったものだから、論文としてまとめ、その妥当性をどう検討するか、どう解析して最終的なスコアを仕上げるという課題が出てきました。でもその詳細な方法は自分ではよくわからないので、その指導を受けるために、成人病センターの疫学部門に、2年間腰を落ち着けて研修を続けることにし、初めての論文をまとめました(救急医学, 7(2), 241-251, 1983)。将来救急をやるので、データ解析やシステムづくりの勉強も必要と感じたからです。救急疫学については、当時誰もやっていませんでしたから。きちんとエビデンスを出していくことが、良い救急システムを作っていくことに役立つと思って、2年間疫学部門に寄り道しようという感じでした。しかし、そこで大きく道が変わりました。救急に行きたい人は後輩にもたくさんいたので、僕は、疫学部門で仕事をしようと決意し、社会医学系、公衆衛生系の方にシフトしました。しかし、その後も10数年間は、小児科や内科の外来診療、休日夜間の病院の当直などをして、患者さんを診ることは続けていました。
━━━ 救急にいくことを見据えて、疫学の研究をされていたということでしょうか。
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救急というのは、切って貼っての世界なんです。いかに命を救うか。特に高次救急では、とにかく命を救わないといけない。常に待機していて、患者が発生したらそれに対処するという、まさに一番医療らしい部分です。一方、プレホスピタルなケアとして、今はAEDも普及してきていますけれども、救急患者を待って治療するというだけではなく、もっと予防的な取組もあるし、患者の重症度に合わせて、一番適切なところに運ばれるようなシステムを作る、というようなことも必要です。そういうことも含めて全般をしたいと思っていたんです。切って貼っては今後いくらでもトレーニングを受けることができるけれども、それよりは、せっかく4年間の初期研修を大阪府が認めてくれたことを利用しようと思って寄り道したのが、寄り道じゃなくなって、本分になったということです(笑)。人生ってわからないですよ(笑)。
━━━ 11歳の頃の医師のイメージから一転、公衆衛生の道に、ということだったんですね。
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そうなんです。ただ今でも、自治医大に入ったということで、赤ひげ先生じゃないですが、僻地のように医療に困っている人たちに医療を届けるという点、そこは原点として胸に刻んでいます。常にその原点があって、たばこのことも対策としての取組ができていなかったので、解決に向かうような研究や実践をやろうと思ったわけです。自治医大の校歌に「医療の谷間に灯をともす」という歌詞があるんです。要は、この建学の精神が僕の仕事のテーマということです。
今回の学術大会のテーマにもつながりますけれど、ギャップなわけです。ギャップをなんとか埋めようというのが、自治医大の卒業生には刷りこまれている。谷間とかギャップとかって聞くと、DNAが動くんですよ。なんとかしなくちゃいけないという気持ちになる。たばこはまさに、医療や政策の谷間だったので。今でも谷間的なところはありますが、昔はだいぶ向かい風だったのが、今は追い風にはなってきました。こういう経過の中で、社会医学の道に進むことになりました。
たばこの研究に至ったストーリー
— 様々ある研究テーマの中でも、喫煙について研究されることになった経緯をお聞かせいただけますでしょうか。
- 学生時代から生活習慣には興味があり、患者さんに対する行動変容支援の重要性というのは医学生時代から関心を持っていました。
- たばこの問題は、小児科を廻っていた時に感じていました。800gの未熟児を3週間ずっと、帰宅せず、夜中も3時間置きぐらいに主治医として呼吸管理をしていました。そのケースでは、両親とも喫煙者でした。また産科の助産師さんたちと、産科のカルテに記載されている親の喫煙状況と出産の結果と照らし合わせて、喫煙している妊婦さんでは出生児の体重がどれだけ減っているかなど解析をして、実際に妊婦さんの禁煙支援も始めていたんですね。たばこに関しては、やっぱり一番大きなきっかけは、こうした卒業後2年間の初期研修での体験でした。
- あとの2年は成人病センターの疫学部門で、がんの疫学、特に肺がんの疫学研究に従事して、その後、3年間、大阪府の方針で保健所に勤務しました。保健所に勤務しながら、夜は成人病センターに行って研究を続けました。せっかく保健所にいるのだからと、管轄市町村の妊娠届け出時のアンケートの喫煙状況と出産結果を照らし合わせて、妊婦への受動喫煙の影響を明らかにしました。その後、1987年に大阪がん予防検診センターがオープンし、そこが、がんの一次予防としてたばこ対策をやるということで、私の恩師になる大島明先生から指名を受けて、その担当になりました。がんの一次予防の一環としてたばこ対策をやるということも、たばこの問題に医師として専属で業務として取り組むっていうのも、おそらく日本で初めてのケースではなかったかと思います。それ以降たばこ対策はライフワークとしてずーっと続いています。
インタビュー後編では、中村先生の今後の展望、学術大会への想い、若手へのメッセージをお届けします!(大内・岡田・福井)
研究の難しさとおもしろさは紙一重
━━ 食習慣を扱う研究の難しさ・おもしろさはどのようなところですか。
- 私が食の分野を選択したのは、管理栄養士の資格を持っているということもありますが、『食事』が良くも悪くも私たちの健康に大きな影響を与える重要な因子だと思ったからです。食習慣って本当に色々な要因が関わってきますよね。例えば、環境要因、経済的要因、心理的要因など、食習慣には多くの要因が絡むので、なかなか食習慣を変えることは難しい。今まで介入研究も行ったことがあるのですが、対象者の食習慣を変えることはなかなか難しくて・・・。この分野の研究をやっていて上手くいかないことも多くあるのですが、その難題をどう解決していくか、それをあれこれ考えて挑戦していくことが逆に面白いのかなと思っています。
━━━ 研究で行き詰った時はどのように対処されていますか?
- 研究が行き詰った時には、初心にかえって論文検索から始めます。PubMedなどで検索すると、世界中の研究論文が掲載されている中に自分の研究のヒントになる論文があったりするので、いいアイディアが思い浮かばなかった時には、まずは論文検索をするようにしています。
良い食習慣で大学生を救え!
━━━ 研究活動の支えになっているものについて、教えてください。
- 大学の学内実習で大学生に食事調査を行うと、管理栄養士養成課程に所属している学生でも、朝食や夕食を欠食していたり、栄養バランスがとれていなかったりする人は意外と多いです。しかし、大学生の時期は健康を作り、維持していく上で重要な時期と考えています。
- 親から自立して一人暮らしを始めると、食生活が大きく変わる人も多いですが、悪い方に変わってしまった場合に、それが社会人になっても継続してしまうと、最終的に生活習慣病を発症する可能性も高くなります。また、骨密度も若いうちに高めておかないと、将来骨粗しょう症になるリスクが高まりますので、大学生という重要な時期に良い食習慣を身につけておいてほしい、という思いが非常に強いです。その思いが、若年成人を対象とした研究を行う上での原動力になっています。
「継続は力なり」、全ての経験を糧に
━━━ 最後に、若手実践者・研究者に向けたメッセージやアドバイスをお願いいたします。
- 学生時代はとにかく英語に力を入れるのがいいかなと思います。大学までもちろん英語は勉強してきているはずなのですが、英語論文を読むことはかなりハードルが高いですよね。私のゼミに入ってくる卒論生や大学院生も、英語論文を読むことに苦手意識があるようです。しかし、研究者を目指すのであれば、英語論文は山ほど読まなければなりませんし、英語で論文を書いていかなければなりません。英語は一朝一夕で上達するものではないと思うので、学生の頃から、コツコツと積み重ねていく必要があると思います。
また、若手の皆さんに期待することとしては、今後海外の研究者の方と積極的に交流をもっていただいて、日本だけではなく、世界を引っ張っていくような、グローバルに活躍する研究者になってもらえたらいいなと思っています。 - 最後に、これは私の恩師の先生の座右の銘でもありましたが、「継続は力なり」という言葉があると思います。これは本当にそうだと思います。研究も若い時は色々苦労することもあると思います。私も実際苦労してきましたが、様々なことを経験し、諦めずに努力し、継続したことが全部自分の力になってきます。ぜひ、若手の研究者の方には頑張っていただきたいと思います。
『継続は力なり』。中出先生からの力強いメッセージから,日々努力を積み重ねる大切さに改めて気づかされました。どのような経験も大事に,今後も研究に励みたいと思います。(中村・濱下・種瀬)
中出麻紀子 Makiko Nakade
【略歴】2008年より独立行政法人国立健康・栄養研究所(現 国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所)特別研究員を経て、2010年より同研究員となる。2015年より、東海学院大学健康福祉学部管理栄養学科講師を経て、2018年より、兵庫県立大学環境人間学部食環境栄養課程 准教授。
━━ 奨励賞受賞のご感想を伺ってもよろしいでしょうか。
- 今回このような素晴らしい賞をいただき、大変光栄に思っております。これまでどんなに忙しくても、大変なことがあってもずっと研究を続けてきましたが、今回賞をいただいたことで、これまでの努力が報われたような気がしています。今後も食習慣に関する研究を軸に頑張っていきたいと決意を新たにしたところです。
研究はおもしろいと思える時が必ず来る
━━━ 研究の道に進むことを決めた時期やきっかけを教えてください。
- 年齢の近い親戚が皆、大学院に進学していたので、大学院には進むものと考えていました。肥満者の減量に有効な食事とはどのような食事かということに興味をもち、修士課程に進学しましたが、修士課程に入った頃は、研究の面白さより大変さの方が勝っていました。そのため、博士課程まで進学するかどうか迷っていた時、その当時、アルバイトをしていた国立健康・栄養研究所の饗場直美先生に、「せっかくここまできたのだから博士課程まで進んだ方がいい」と背中を押していただきました。それが博士課程に進んだきっかけです。そして、修士課程、博士課程と研究を進めていくうちに、次第に研究計画の立て方やデータ解析の方法が分かるようになりました。博士課程修了後には、饗場先生の下で研究員として働かせていただくようになりました。研究所に就職してからは自分なりに研究計画を考えて取り組めるようになり、研究の面白さが分かってくるようになりました。その経験から研究を仕事にしようと決心し、今に至ります。
━━━ 今の仕事についてよかったと感じる時はどのような時ですか?
- 今は大学教員をしていますが、大学では仕事として自分のやってみたい研究が自由にできるので、そこが一番の魅力だと思います。今は、卒論生や大学院生の研究指導もしていますが、私の研究室では学生さんに、自分が研究したいテーマを見つけてもらっています。そのため、毎年様々なテーマが出てきますが、それをなんとか実現まで導くことが私の役割と思っています。私自身が今まで行ったことのないような分野のテーマが出てくると結構大変です。私もその分野の論文をかき集めて読むことになるのですが、この作業が自分自身の勉強にもなっています。また、研究を進めていく時も、卒論生や大学院生とディスカッションしながら研究計画を立てていくので、話し合いの中で私が思いつかないアイディアや、新たな発見があったりして、そういったことも結構楽しいです。そのため、今は結構楽しんで研究をしています。
後悔を減らすためにも、基本を大切に
━━━ リサーチクエスチョンや研究計画を立てる際に意識されていることを教えてください。
- これは当たり前のことだと思いますが、まずは自分の研究テーマに関連する論文を漏らさず集めて、それを全て読んで頭に入れることが重要です。それによって自分の研究は先行研究と比較して、どの位置づけにあるのか、他の研究と比べて自分の研究はどこが違うのかを明確にすることができます。また、私は質問紙調査をすることが多いのですが、質問紙調査は実験のように条件を変えて何度も行うことができません。そのため、一回の調査で結果が出せるように、調査票を作成する時にはかなり時間をかけています。調査票を作る段階で、解析後の表のイメージを作って、解析法は何を用いるのか、出た結果に対してどのように考察していくのかを想像して、必要な項目を調査票に入れるようにしています。最初にあまりよく考えずに調査票の項目を決めてしまうと後で後悔することが多いですよね。これも調査票に含めておけば良かったということを少しでも無くすために、計画の段階で考えられる項目は全て盛り込んでおくことが重要だと思います。
インタビュー後編では,研究活動に込められた想いや若手へのメッセージをお届けします!(中村・濱下・種瀬)
やりたいこと、社会から必要とされていること、自分のできることの最適解を研究に
━━ 現在の認知症に関する研究に特に興味を持ったきっかけは何ですか。
- 博士課程での研究テーマを考えた時に、社会的インパクトを生み出せる研究をやりたいと考えていました。そのためには、自分がやりたいこと・できること、社会から必要とされていることとが重なっているテーマを選ぶ必要があると感じていました。その結果選んだテーマが認知症予防に資する研究でした。僕は製薬会社の医薬情報担当者だったのですが、入社した頃から注力してプロモーションしていたのが認知症治療薬でした。そういった薬の情報提供活動をする中で、医療従事者以外にも認知症患者さんご本人やそのご家族からお話しを伺う機会を多く持つようにしていました。このような活動は会社の利益に直接的には結びつかないのですが、認知症の早期発見・早期治療を実現するための地域連携や認知症の方が安心して生活するための認知症ケアなど、認知症の治療だけでなく予防やケアに関する知識と経験を幅広く得ることができました。ちょうどその頃、認知症が2025年に730万人まで増えるというデータも出てきていたのですが、当時は認知症予防については認知症施策の中でもまだまだ研究が少なかったため、これは研究として深めるべきだろうと思って始めたのがきっかけでしたね。
━━━ 研究でプログラムを立ち上げるときに大切にしていることを教えて頂けますか。
- 高齢者の自主グループを立ち上げるときに、自分が重要だと思っているのは、介護予防を主目的にしないことです。楽しくやって、楽しんでいるうちに、結果として体が元気になって介護予防になっていることが、重要だと思っています。研究者の立場としては、せっかく立ち上げたから残したいし、続けて欲しいという気持ちは当然ありますが、それをやることによって高齢者の方にとってストレスになるのであればやらない方がいいと思いますし、それを続けてその人たちが楽しそうだったらそれでいいかなと思っています。とはいえ、そういうふうに思ってもらえる仕掛けは必要だと思っています。プログラムを楽しいと思ってもらえたり、ここが自分の居場所と思ってもらえたりするような仕掛けは、プログラムを提供する時点で考えることが重要だと思っています。
ほかの人と何か違う存在に
━━━ これから留学に行かれるとお聞きしました。留学の目的やきっかけ、留学先としてオーストラリアを選んだ理由を教えて頂けますか?
- 一番の理由は、面白そうだからです。もう一つの理由としては、他の研究者の方と違う経験を積みたいからです。優秀な先輩の研究者たちがたくさんいらっしゃる中で、どうやったら自分が目立てるかと考えたときに、ほかの人と違う経験をしていることは重要だと思っています。なので、世界をリードする海外研究者の方々と共同研究を行うという経験は自分を大きく成長させてくれるんじゃないかなと、期待しています。オーストラリアを選んだ理由は、荒尾先生がクイーンズランド大学のWendy Brown教授と繋がりがあったというのがきっかけです。
- 僕も2019年に2ヶ月ほどクイーンズランド大学に留学して共同研究を行いました。短期間ではありましたが、仕事の進め方、研究に対する考え方、研究に対する視野の広さみたいのが、自分にとってはすごく刺激的でした。この環境にもう少し長く身を置いたら、もっと研究者としての能力を高められると思ったのと、海外の大規模データを使って論文を書くことで、将来的に日本で大規模データを構築していくために参考になるのではないかということが、大きな理由ですね。あとはクイーンズランド大学があるブリスベンはすごく住みやすい環境なので、その点も結構重要な理由ですね。
自分の研究者人生を代表するような研究を
━━━ 今後のご自身の展望などをお聞かせいただけますか?
- 僕は今、特別研究員という、一時的ではありますが、100%研究に没頭できるポジションにいますので、この3年間はしっかり研究に取り組みたいと思っています。先述の研究留学も大変ですが、今年度から基盤Bの助成を受けて実施している研究テーマも、相当頑張らないといけないチャレンジングなテーマです。これらの研究を成功させるために全エフォートを割くことができるので、これからいい研究にできるように頑張りたいと思っています。最終的には、これらの研究の中で自分の研究者としてのキャリアを代表するような研究成果を出せたら嬉しいですね。
━━━ 最後に若手の実践者、研究者へのメッセージ、アドバイスをお願いします。
- 研究の生産性を高めていくには、よい精神状態を保つことが重要だと思います。
- 僕が博士課程の頃は、研究をするためにメンタルを良好に保つことに結構苦労しました。周りの同年代の仲間は働いていて、自分はまだ学生で、劣等感というか、焦る気持ちがかなりありました。しかし、頑張って論文を書かなきゃという思いはあっても、最初から論文をうまく書けるわけもなく、大変苦労するので、なかなかやる気が起きないということがありました。おそらくそういった経験は僕だけではないと思っています。そういう時は、比較対象は周りではなく、過去の自分にした方がよいと考えています。例えば、●●さんは今年だけで論文を3本も出してるのに、自分は1本しか出せていないと考えると、落ち込んでしまうかもしれませんが、去年は、1本も論文を出せなかったのに、今年はすでに1本出せたと思えば、自分も結構頑張っていると思えるので、次も頑張ろうと思えるのではないでしょうか。とにかく自分を認めて誉めながらコツコツ頑張ることができれば、大きな成果につながるのではないかと考えています。
- 僕のこれまでの経験から、研究者になるための道順に正解はないと思います。同じ環境でも研究室メンバーとの相性やシステムが合わないなどがあります。自分の場合は、荒尾先生を含めた周りの先生方と性格的にも合ったので伸び伸びやれましたが、人や環境の合う・合わないは、自分ではどうにも出来ないことなので、自分でどうにか出来ることだけ集中して、それ以外は気にしないことがメンタルを保つには大事だと思っています。
自分のやりたいことを中心に、迷いながらも進んでこられた根本先生のお話はとても心に残るお話でした。一歩一歩の歩みを大切にしていこうと勇気をいただいたインタビュー担当者たちでした。(頓所・佐藤・鈴木)
根本 裕太 Yuta Nemoto
【略歴】2009年早稲田大学スポーツ科学部卒業後、同大学院スポーツ科学研究科に進学。製薬会社の勤務を経て、2018年日本学術振興会特別研究員(DC2)、早稲田大学大学院博士後期課程修了。その後、医療経済研究機構外部研究員、東京都健康長寿医療センター研究所研究員、現在は、日本学術振興会特別研究員(PD)、東京医科大学公衆衛生学分野客員研究員として研究活動に従事している。
━━ 奨励賞の受賞おめでとうございます。お気持ちをお聞かせください。
- 日本健康教育学会には、修士の学生の時に入り、修士課程修了後に社会人になってもずっと所属していた思い入れの深い学会でしたので、いつか自分も奨励賞を受賞出来たら嬉しいなと思っていました。去年は原田先生、その前が金森先生と、荒尾孝先生(明治安田厚生事業団体力医学研究所、以前は早稲田大学)の研究室の先輩方が受賞されて、そういった先輩方に続くことができてすごく嬉しく思っています。ただ、先輩方と比べると僕にはまだまだ至らないところが多いので、これからさらに頑張っていかなきゃいけないと思っているところです。
荒尾先生との出会い
━━━ 修士を出られてから一度社会人を経験されていますが、進路を選択する際に、どうして企業を選択されたのでしょうか?
- 修士課程修了後に、そのまま博士課程に進みたいという気持ちは強かったのですが、家族や荒尾先生と話し合い、社会人としての経験を積むという選択に至りました。決め手となったのは、荒尾先生からの、「社会に出て、研究の外側の世界から自分の研究について見つめ直すことは、研究者としての視野を広げるためにも重要だ」という言葉でした。僕にとっては、あのタイミングで社会人としての経験を積めたことは非常によかったのだと考えています。
━━━ 健康に興味を持ったきっかけは何だったのでしょうか?
- 大学2年生の時に健康づくりについての講義を受講したことがきっかけで、運動と健康との関係について興味を持つようになりました。その時の講師の先生が荒尾先生でした。それまでは、自分が体育会系のバスケットボール部に所属していたこともあり、運動やスポーツが必要とされるのは、アスリートなどの一部の集団であるように考えておりました。しかし、荒尾先生の講義を聞いて、健康づくりという、誰もが必要とすることに対し、運動・身体活動が大きく貢献できることを初めて知りました。荒尾先生が仰っていた「社会を変革する」まではいかなくても、より多くの人たちの幸福につながるような研究ができるという部分に、少しずつ興味を持つようになりました。
結局自分は何をやりたいか
━━━ 学生時代の研究室生活で意識されていたことはありますか?
- 荒尾先生の研究指導の時には、いつも「何がやりたいか」を質問され、興味があることについては、実現できるように最大限支援してくださいました。ただ、学生の自主性に任せている部分も大きいので、自分が進めようとしないと何も進まない。そのため、普段から自分の頭で考えることを心掛け、自分が何に興味があって、研究を通して何をしたいのかを常に考えていました。また、僕は博士課程に進むのが遅かったので、研究者としてのキャリアについて悩むことが多かったのですが、荒尾先生からは、研究者人生は長期的な視点で考えること、例えば、10年を一つの節目として考えて計画するといいというアドバイスをいただいたことを覚えています。研究者として大きく活躍できるようになるのはだいたい40代からだから、20代・30代はそこに向けた基盤を整える大事な時期なのだと仰っていただきました。それからは、将来的な理想像から逆算して、いつまでに何をやらなくてはいけないというのが決まるので、それに対して自分をこうしていこうという具体的な目標を立てていました。
━━━ 会社を辞めて、研究の道に戻ると決めた経緯を教えてください。
- 民間企業に就職するまでは、2年で大学に戻ろうと思っていたのですが、なかなかそうはいきませんでした。研究はやりたいと思っていても、土日もずっと仕事をしており、少しずつ仕事が楽しくなっていた時期でもあったため、研究について考える時間も少しずつ減り、気持ちがどんどん離れていくのを感じていました。そんな中でも、研究への想いを持ち続け、再度大学に戻ることができたのはやはり荒尾先生のおかげでした。修士を卒業した後も荒尾先生と定期的に飲みに出かけ,荒尾先生の研究のお話を聞いていつもわくわくしていました。しかし、経済的な面や年齢などを言い訳になかなか踏み出すことができませんでした。僕が就職してから3年経った頃に、荒尾先生から「3年後に定年になるので、次のタイミングで大学に戻ってこないと直接指導できなくなる」ことを告げられ、そこでやっと一歩踏み出すことができ、研究へ戻ることになりました。本当にラストチャンスでしたね。
インタビュー後半では,現在とこれからのご研究で大切にされていること,若手に向けてのメッセージなどをお届けします。(頓所・佐藤・鈴木)
一流を目指すならどんな人にも伝わる言葉で話す
━━ 先生は獨協医科大学の副学長もされていらっしゃいますが、大学や研究室等、運営において大切にされていることを教えてください。
- 大学の中で心がけているのは、システムや仕掛けを作るときには、出来るだけ人と直接やりとりをするということです。行動変容させたいと思って、ルールや力で従わせても、最後には心が動かないと、本当の意味での行動変容にはならないのではないかと考えています。もちろん、意識のあるなしに関わらず行動が変わることで効果がある場合もありますからナッジも必要ですし、三日坊主で終わってしまうこともあります。継続できる仕掛けを上手に作ることも大切ですが、心震えるということも大切だと思います。人生の価値はどれだけ心が震えたで決まるのかも(笑)。
- 教室では、公衆衛生を医療・保健・福祉に限らず幅広い分野の方と勉強することを意識しています。他の分野の人にも、小学校5年生でもわかるような言葉で説明し、きちんとお互いに理解しあいながら連携しましょうと伝えています。意を尽くして一生懸命伝えようという態度や熱意が大前提で、厳しいですが、人に伝わらないのは話し手の能力不足と言われても仕方がない。一流を目指すのであれば他の分野の人にきちんと説明でき、連携できる力がなくてはなりませんと教室でよく言っています。
- また、もう一つよく言っているのは、研究で扱うデータについてです。特に他で集められた大きなデータを解析する場合など、ともすれば私たちはそれを数字としてしか認識せずに解析を進めたり、結果を考察してしまう場合があります。しかし、一つ一つのデータは“人”そのもので、データの後ろにはその人の人生があるわけです。データの向こうに人がいる。その研究、解析、考察は人のためになっているか?人がその研究の成果を待っている…ということを、教室員にいつも口を酸っぱくして伝えています。
30年後を見据えた「ビジョン」を持って走り続ける
━━━ 若手に期待すること、メッセージやアドバイスをお願いいたします。
- 人生において先行きの不安があるのは当然のことです。映画でもスリルがないとおもしろくありません。先が不安なことをネガティブなことだと思わず、むしろ人生の醍醐味だと考えて、どんなことでも自分を信じて挑戦してみましょう。つらいことや苦しいことを乗り越える、また自分が持っていないことを開拓していくことは大変なことですが、「最終的にはうまくいくようにできているんだ」と、その時その時、自分を信じてやっていくことが大切です。
- 人生や研究活動は、短距離走でもマラソンでもなく、「駅伝」です。自分のベストを尽くして走らなければならないけれど、ペースを乱し、タスキが途切れてしまっては、次の人(世代)に繋がらず、チームが負けてしまいます。若手研究者の皆さんには、とりあえず完走できればいいという気持ちで走るのではなく、出来れば優勝、出来ればシード権を取りたいという気持ちで。しかも、どういうペースで、どういうコースをどう走らなければならないのかを「周到に計算して」走ってほしい。走るのは自分のためでもあり、同時に人のためです。そして必ず次の人にタスキを繋いでほしいと思います。
- もう一つは30年後を考えること。これからの時代を活躍していく若い先生方は、世の中がどう変わっていくのかを考え、次の課題に向かっていってほしいと思います。今の社会で、僕らが忘れているものはないかと再確認してほしい。ノーベル賞を受賞した山中教授は留学先で、研究で成功する秘訣は「VW」だと教わったそうです。Vはビジョン(vision)、Wはハードワーク(work)。明確なビジョンを持ち、そこに向かって一生懸命にやることが大切です。人類がみんな幸せになるためには、何をしていかなければならないかというビジョンを持ち、努力していただきたいです。
伝統と創造、そしてこれからの健康教育のあり方を考える
━━━ 最後に、学術大会に向けてのメッセージをお願いします。
- 今回の学術大会のテーマは「伝統と創造」。獨協医科大学の母体である獨協学園を創った先生が「伝統なき創造は盲目的であり、創造なき伝統は空虚である。」という言葉を残しています。伝統と創造はどちらも大切にしなければならないということです。学会創立30年の節目に、今までのことを振り返り、今後世の中はどのように進んでいくのか、この先私たちは何をしていかなければならないかというビジョンをみんなで考え、共有できる時間にしたいと思います。
- コロナ禍やSociety 5.0など、社会が大きく変化する中で、今後の望ましい健康教育のあり方を考えていくことは重要です。高齢化社会でみんなが健康長寿を目指す一方で、痛ましい児童虐待の防止も大きな課題です。具体的な生活習慣の改善と同時に、人と人とが良いコミュニメーションを取り、心を通わせ、温かく平和な社会を次世代に繋いでいくためにはどうすればいいのか。今、世界で取り組みが進んでいるSDGsの中で、健康教育の役割を考えることも大切だと思います。禁煙、栄養、身体活動、働き方、地球環境、社会環境…、すべてを包括的に捉えた「生き方改革」には、心の成長が必要な気がしています。本学会で重点課題としているアドボカシーやアクション・リサーチも、「人の心に寄り添い」「人の心を動かす」ための取り組みなのだと思います。
- 今回の学術大会をきっかけに、今まで健康教育を意識してきた人、意識してこなかった人、学会員以外の人たちも巻き込み、健康教育・ヘルスプロモーションを通して、みんなが幸せになれる道を模索していければと思っています。学会自体はとても短い時間で、出来ることは限られていますが、皆さんそれぞれの目に何かが見える機会を提供できれば幸いです。
小橋先生から、若手へのメッセージや学術大会に向けた想いをお聞かせいただきました。小橋先生が学会長を務められる学術大会に是非ご参加ください。
(中村、伊豆、髙野)
小橋 元 Gen Kobashi
【略歴】1989年 北海道大学卒業。研修医・産婦人科医として勤務の後、北海道大学公衆衛生学教室助手、同 大学院予防医学講座講師。2006年 放射線医学総合研究所遺伝統計研究チームリーダー。同 研究企画室長を経て、2015年 獨協医科大学医学部公衆衛生学講座主任教授に就任。2018年より学長補佐、2020年より副学長、先端医科学統合研究施設施設長を併任。
━━━ 先生は医学部のご出身ですが、医師を目指されたきっかけを教えてください。
- 最初から医師を目指していたわけではなく、中高生の頃はテレビの制作に関わる仕事がしたいと思うようなミーハーな生徒でした。高校に入った頃に、ノストラダムスの大予言を読んで、今後世の中が不安定になったり人々が苦しんだりする時代が来たときに、何もできなくていいのか、医療といった形で関われないかと思い始めたのが
- きっかけです。
「全人的医療」を志し産婦人科医に
━━━ 産婦人科を選ばれた理由をお聞かせいただけますか?
- 私が大学1年生のときに母が体調を崩しました。母はいくつもの病院に行って検査や診察を受けましたが、診断がつきませんでした。それまで医療の道に入れば、体調が悪い人たちのために何かができると思っていましたが、診断がつかないものには治療が出来ないのかなと感じました。その後、漢方薬局にたどり着き、漢方薬のおかげで母の体調は少しずつ良くなっていったのです。この経験がきっかけで大学の東洋医学研究会に入りました。ある時、先輩に連れられて近所の漢方薬局の先生に話を聞きにいきました。最初に先生から「漢方って何だと思う?」と尋ねられました。言葉に詰まる私に、「漢方というのはそもそも漢民族が幸せになる方法ということですよ」とおっしゃいました。これは今の時代で言えば、「人類が幸せになるための方法」ということになります。さらに先生から「これって何だろうね?」という問いに、私は「科学ですか?」と答えました。先生は「おそらく間違っていないと思うよ」と言われました。このとき、自分がこれから勉強する西洋医学は、あくまでも「人々の幸せのための方法」である科学の「一部に過ぎない」のだということに気付きました。そして様々な分野の方法論を集めて人を幸せにすることが自分のすべきことだと考えながら大学時代を過ごしました(今で言うところの「全人的医療」がしたいと思っていたのですが、結局は俗にいう「社会勉強」ばかりしていたような気がします(笑))。
- 産婦人科を選んだ直接的なきっかけは、学生実習での経験です。当時、学生実習でたくさんの学生が患者さん1人を取り囲んで診療する形でした。しかし産婦人科だけはそうではなく、直接1人1人の患者さんから問診をとらせてもらうことができました。私は外来の看護師長さんにとても目をかけていただいて、1人でたくさんの患者さんのお話を聞かせてもらうことができました。病棟実習では病棟のすべての患者さんに挨拶をして回ったりしました(「小橋の総回診」と言われてからかわれたことがあります(笑))。患者さん達は学生の私にも一生懸命に病気のことを聞いてきました。まだ学生で答えられないこともたくさんあり、自分の無力さを痛感しました。カルテや看護記録を見せてもらい、担当の先生にもお聞きして、どこまでならお話できるのかということも勉強しました。それは特別な診断も治療もしていない、おそらくはただの小さなコミュニケーションでしたが、自分が調べたり勉強したりすることには人の命や人生かかっているのだ(健康教育には責任が伴うのだ)と気が付いた貴重な経験でした。このように実習をする中で僕は、コミュニケーションをとることで人々が安心できたり、ちょっとした生活の知恵や工夫や考え方で病気を良く出来たり、病気に罹らなくしたりできないものだろうかと考えるようになりました。当時の大学病院の臨床の診療科は、すでに重い病気になってしまった方々に進んだ治療を提供するということが多かったのですが、産科の妊婦健診で先生が健康なお母さんとニコニコしながらお話ししているのを見て「これだ!」と思いました。お母さんが健康になれば子どもも健康になれるのではないかと思ったのです。また、自分の経験からも、母親の調子が悪くなると家族も大変だということを肌に感じていましたので、産婦人科医になろうと決心しました。
相手の事情、背景を推測・想像して配慮する
━━━ 産婦人科医としてのご経験について、特に印象に残っていらっしゃることなどを教えてください。
- 産婦人科医になってすぐに、誰もいないときに分娩台の上に乗ってみたことがあります。もちろん下着を取って(誰かに見られやしないかとドキドキでした(笑))。また、ときどき早朝などの患者さんのいない時間帯に、病院の玄関から受付を通って産婦人科外来の前に行って、待合室のベンチに腰掛けてみました。自分のところへ患者さんがどんな景色を見て、どんな気持ちでここまで来ているかを考えたのです。これにより治療法が特別変わることはないのですが、患者さんが見ている景色を想像することで、ちょっとした言葉や態度が変わります。今日は来てよかったなと思ってもらえることが重要だと考えて仕事をしていました。
- 2年目の頃、外来がいつも14時まで終わらなかったのですが、外来の看護師さんから「先生の外来は他の先生達の外来の5倍の患者さんが来ているよ」と言われました。どうしてだろうと思っていたら、ある患者さんが「みんな待合室で、先生の診察は痛くないから良いんだよね」って噂になっているよと教えてくれたのです。私は産婦人科医になったときから、診察や処置を痛くなくするにはどうしたらよいだろうかと大真面目に考えていたので、まさに我が意を得たり!でした。
- おそらく大事なことは、患者さんが安心して任せてくれるということ。同じ診察、同じ治療をするなら絶対に痛くない方がいいですよね。妊娠中にお母さんは様々な経験によって成長し、それが子どもに伝わっていくわけです。それに関わる私たちがお母さんに痛い思いをさせる存在ではいけない。私は男だから女性の痛みを自分で体験することはできないけれど、その痛みを推測・想像して、どのようにしたら寄り添えるのかを考えていくことが重要なのではないかと今でも思っています。相手の事情、背景を推測・想像して配慮することは、健康教育や研究においても同じだと思います。
「本当にやりたかったこと」が恩師との出会いを生む
━━━ 研究の道に進むことを決めた時期やきっかけ、また公衆衛生学をご専門にされた理由をお聞かせいただけますか。
- 学生時代は、臨床医になろうと思っていたので、公衆衛生学も研究も全く考えていませんでした。
- 産婦人科は基本的に激務です。医者になって3年目の頃、先輩の先生と2人で月に80件のお産に全例立ち合いながら、まったく寝ないで仕事を続けていたら、自分の意思では身体が動かないくらいに疲労が溜まりました。病棟の奥で点滴をしてまた仕事に戻り…を何度か繰り返していました。ある時、点滴をしながら天井を仰いで考えました。その頃ちょうど自分の子どもが産まれた頃でもあり、この子が大人になるまでに自分は何ができるのか、働いてどれだけの患者さんにご縁があるのか。もし自分が毎日1人の妊婦さんに一生懸命に関われたとして年間約300人、30年で約1万人か…。こんなに身を削っても、たったそれだけか…と思うに至りました。
- そこで、自分が本当にやりたかったことは何だったのだろうと思い返したときに、私は妊婦健診ともう一つ、「母親教室」がやりたかったのだ!とストンと胸に落ちたのです。
- 母親教室は母子保健、公衆衛生の分野だ…公衆衛生の勉強をしよう!と思い立ち、公衆衛生学講座に教科書を借りに行ったのが、当時の教授(近藤喜代太郎先生)との出会いでした。私はそこで単刀直入に「先生、公衆衛生って何ですか」と尋ねたのです。先生は「公衆衛生というのは憲法第25条の生存権の~~」と立て板に水のごとく説明してくれました。さらに色々と話しているうちに、先生に「私のところに勉強に来たらどうですか」と言っていただいたことが、公衆衛生学の道に入るきっかけとなりました。その後、近藤先生が亡くなる少し前に、「私はもともと神経内科の臨床医です。ご縁があって公衆衛生の教授になった時から、いつか小橋君のような人が来てくれるのではないかと思って公衆衛生とは何かという話を用意していたのです。あの話をしたのは後にも先にも君しかいないのですよ」と嬉しそうに言われたことを覚えています。
インタビュー後編では、若手へのメッセージや学術大会に向けた想いをお届けします!(中村、伊豆、髙野)
「負担なく、継続できるには」を考えている
━━━ 現在の研究内容について、教えてください。
- 今メインでやっている研究は、食器と食事量の関連についてです。小さなお茶碗を使うことによって、ご飯をうまくコントロールできるようになるか、というところが大きな問いです。
━━━ フィールドの確保などは、どのように行ったのでしょうか。
- 今の研究はクリニックに勤めている研究室の後輩にお願いしました。私の3つくらい下の、研究室時代も一緒に過ごした後輩で、卒業後も旅行に行くくらい仲良しで。その後輩と話していた時、クリニックの院長は研究が好きと聞いたんです。それじゃあ、私の研究も協力してもらえないかな?みたいな感じで、見つかりました。
━━━ これまで様々な研究を行われてきたと思うのですが、特に関心を持っているテーマや、課題に感じていることはどのようなことでしょうか。
- 男性で忙しくて食を顧みていないような人、生活習慣病のリスクが高い人というのが、一番問題としては大きいと思っていて、しかもそういう人たちを変えるのは結構大変だと思っています。そういう人たちが負担なくできて、継続して食行動を管理できるようになるにはどうしたらいいか、ということを一番やりたいなと思っています。
━━━ そういった意識がお茶碗の研究にもつながっているのですね。
- そうですね。「野菜を食べた方がいいですよ」と言ったとしても、なかなか行動につながらなかったり、面倒くさかったり、食事を制限するのはマイナスなイメージがあるので、「こうすれば簡単にできますよ」というように、負担なく継続できるためにはどうしたらいいかを考えています。
シンプルな問いからリサーチクエスチョンに
━━━ リサーチクエスチョンや研究計画を考える際のコツや意識されていることがありましたら、教えてください。
- 問いになるようなこと、例えば「小さなお茶碗を使ったら食事の摂取量を管理しやすくなるか」とか、「これとこれの関連」とか、シンプルな一言で言える問いを考えるようにしています。それがそのままリサーチクエスチョンになることもあると思いますね。最初は、そういう問いから入ることが多いです。それを考えつつ、これまでの背景を見たり、それに関連することを考えていったりすると、その問いもだんだんしっかりしたものになっていくと思います。
━━━ 問いが浮かんでくるのは、どんなときでしょうか。
- 紙に、今の状況(こういうことはわかっている、とか)を書いて考えます。落書きじゃないですけど、ラフな感じで書いて、その中だったら私はこれが気になるなということを探していきます。「こういう分野の研究がしたいな」というざっくりとした分野を決めておいて、その分野に関連することをなんとなく書いていって、そこから問いを見つけたり。あと、概念図のような図にすることもあります。
━━━ 図を書くときは、調べながら書いたりするのですか。
- これまでも同じような分野の研究をしてきているので、自分の今までの研究を書くだけでも振り返れると思います。だから新たに何かを探すというよりかは、まずは自分の頭にあるものを書いていって、「これってどういうことなんだろう?」ということが出てきたら調べて、という感じです。
━━━ テーマを掘り下げる際に、知りたい分野を決めるとおっしゃっていましたが、お茶碗の研究はどのようにテーマを掘り下げたのでしょうか。
- 自分でもあまり憶えていなくて、どうやったのか、言われてみれば不思議ですね(笑)
- お茶碗の研究を始める前からナッジのことは気になっていました。お茶碗の研究を始める前に、衝動性や食べすぎた後の対策について研究していて、そこでシステム1とかシステム2とか、すぐ判断して食べすぎてしまうという話を聞いていました。そこで栄養教育をしても瞬時に食べ過ぎてしまうなら、それにアプローチするためには、考えなくてもできることの方がいいのかな、と思いました。そこからどうやってお茶碗にいったのかは、あまり憶えていないです。
━━━ 研究のために普段から意識されていることや、研究以外のことで研究につながっていると感じることはありますか。
- 管理栄養士や栄養士の先生、現場の人とお話できる機会に、困りごとや課題は聞くようにしています。そういうお話から何か研究につなげられないかな、と考えたりします。
━━━ 現場の方とお話する機会はよくあるのでしょうか。
- この間の学会でも、現場の方とお話できたりして、そういう時に単に質疑応答だけではなくて、「この人はなんでこの学会に来ているんだろう?」とか、「どういうことを学びたくてここに来たのかな?」ということも考えて質問したりします。あとは臨地実習でお世話になった施設の方とお話したりとか、そういう時ですね。
今くらいのペースでこれからも
━━━ 今後の研究、キャリアの展望を教えてください。
- 今くらいのペースでこれからもやっていくのが目標ですね。大学内で役職が上がっていくと、大学の仕事が増えていく。そのなかでも今くらいのペースで研究し続けたいと思っています。
若手研究者・実践者に向けてのメッセージ
- 若手の会に入りましょう(笑)自分自身も若手の会の運営委員としてインタビュアーをしていて、実は、第1回の神馬先生のインタビュアーを務めていました。なので、まだ自分にはインタビューをしてもらう側としての若手へのメッセージがなかなか浮かばず、頑張ってくださいとしか言えないです。若手の会はインタビューができたり、学術大会の企画ができたり、良いことがたくさんがあると思っています。なので、若手の会に入って、ぜひ色々な活動をしてください。
進路選択に迷ったり、研究初心者である学生にとって、大変勉強となるお話をたくさん伺うことができました。また、今後若手の会の活動も、さらに活性化していきたいと思います。(頓所、鮫島、大内)
新保みさ Miho Shimpo
【略歴】 お茶の水女子大学生活科学部食物栄養学科を卒業後、同学大学院 人間文化創成科学研究科ライフサイエンス専攻に進学。日本学術振興会特別研究員(DC2)を経て、2016年博士後期課程修了。2016年より同学でAA、AFを担当。2014年には、日本健康教育学会若手の会立ち上げに携わり、2017年まで運営委員長を務める。2018年より長野県立大学健康発達学部食健康学科 助教に就任。
- 本当にありがとうございます。1回目の奨励賞を受賞されたのが赤松先生、福田先生だったのですが、自分はその時初めて学会に参加して、お二人を見ていました。なので、奨励賞は、雲の上のように、自分とは遠い話だと思っていました。だから、今回、連絡をいただいた時は、驚いて、まさかと思いました。ご審査くださった先生方に、本当にありがとうございますという気持ちです。受賞講演は、緊張してしまって、あまり記憶にないです(笑)
どうしてだろう、を心に
━━━ 研究の道に進むことを決めた時期やきっかけについて教えてください。
- 高校生の時から管理栄養士になりたいとは思っていました。大学を選ぶ時に、オープンキャンパスに行き、お茶大は他の大学よりも研究に力を入れていると感じました。そこで、入学できた時に、せっかくなら大学院まで行こうかなと思っていました。修士2年の時には、管理栄養士とは関係ない企業の就活をしていましたが、いざ内定をいただいて働くことを想像した時に、これでいいのかな~ともやもやがあって。親からもそれでいいの?と言われて、もう一度考え直しました。その当時は、研究室でも博士に行っている先輩や博士に行こうと決めている後輩がいたので、そこで博士の道もあるのかと。研究の、考えたり調べたりの作業自体も好きだったので、研究の道に進もうと決めました。
━━━ 管理栄養士に興味をもったきっかけを教えてください。
- 中学生の時に家庭科で栄養の話を聞いた時に、ビタミンが足りなくなると病気になると覚えましたが、どうしてそうなのかという詳しい話を聞けませんでした。そこで、高校生で進路を考えた時、もっと栄養のことを勉強したいと思いました。調べていく過程で、管理栄養士を知り、なりたいと思いました。単純に食べ物が好きっていうものあります(笑)
━━━ キャリア選択の際に、迷いや葛藤をどのように乗り越えましたか?
- 勢いのようなものもありましたね(笑)自分が好きかな、やっている姿が想像できるかな、というのも考えました。ただ、研究の道に決めた時は、環境も大きかったと今では思います。博士の先輩がいて、博士に行くと決めている後輩がいて、また赤松先生のもとで学べるというのは、とても恵まれた環境ではないかと。お茶大の中にいると、気づかなかったですが、修士2年になる頃にやっと外も見えてきて、自分はすごく恵まれた環境にいると思うようになりました。
食品ではなく、人のことを研究したい
━━━ 研究のテーマやフィールドはどのように選んでいますか?
- 自分の興味関心も一つありますが、それだけではよくないと思っています。ですので、自分の興味関心と社会に貢献できることの2つを考えて、選択しています。
━━━ 特に関心がある分野はどこでしょうか?
- 人の行動に興味があります。食品ではなく、人のことを研究したい。どうして食べてしまうのかなど、行動の裏の心理的なところが気になります。
好き好んで、この道に来た
━━━ 例えば予想外の結果が出た時など、研究で行き詰まることはありますか?
- 研究は計画が大事だと思っていて、質問紙調査や介入をする前に一生懸命調べて、下準備をするようにしています。ちょっと予想と違う結果が出たとしても、方法がしっかりしていれば、それはそれで意味のある結果だから、そこはそんなに気にしないです。就職すればいいのに、好き好んで、この道に来ているという自覚があって。自分が選んだ道だからな~と考えると、少しつらいと思うようなことがあっても、落ち込むことはないですね。
━━━ 楽しいなと思う瞬間はどんなときですか?
- 研究室にいた頃、周りは緒言を書くのに苦労していて、あまり好きではないという声も聞いていましたが、私は緒言を理論立てて考えたり、ストーリーを作るのが好きですね。段落ごとに論理展開を考えたり、分析方法を考えるといった研究の作業が好きで楽しい。わりとなんでも楽しいですね(笑)
━━━ 計画が大事というお話がありましたが、計画を立てる際に心がけていることやコツなどはありますか?
- 計画を立てることも好きで。中学生の時に期末試験対策を2週間前に立てて計画的に進めていくように言われて、やってみて、それが自分にすごく合っていました。今日のやることを書いて消化していくのも達成感があって好きです。今もTODOリストを作って締切日も書いていて、その中から適当に進めていく時もありますが、やることがたくさんある時は、毎日のやることを計画的に決めて進めています。
インタビュー後半は、研究のポイントや進め方、若手に向けてのメッセージ等をお届けします!(頓所、鮫島、大内)
プライベートの時間が研究のヒントに
━━━ 研究計画やリサーチクエスチョンを立てる際に、意識されていることはありますか?
- 研究に直接は結び付かないかもしれませんが、新聞を読むようにしています。新聞を読んでいれば、研究をする上で、多少は浮き世離れしにくくなると思います。ネットニュースはどうしても自分自身の興味が優先されてしまいますが、新聞だと自分の関心とは無関係に紙面の大きさなどから、社会の問題意識がどこに向いているのかを把握できるので、習慣的に読むようにしています。
- 実際に研究のアイデアが思いつくのは、家族と過ごす時間や家にいる時間、あとは家に帰る時間です。人によっては研究室や学会の場でひらめく、という方もいらっしゃると思いますが、私の場合は、どちらかというとプライベートの時間であることが多いという気がします。妻や子ども、両親など身近な人の様子、行動を見ているときや、話を聞いているような場面がヒントになって、アイデアが思い浮かぶことが多いです。
━━━ 研究で行き詰った時はどのように対処されていますか?
- 研究で行き詰った時には、一度寝かせて、少し距離をとるようにしています。寝かせるためには、寝かせるための期間が必要で、寝かせるための期間をつくるためには、締め切りに追われるのではなく、締め切りに十分間に合うゆとりをもって動くことが大切です。ただ、矛盾するかもしれませんが、最後に躊躇せずにぐーっと押し込む力も必要だと感じています。締め切りには追われないように、かつ直前には押し込めるようにということを心掛けています。
良い研究と教育をひとつずつ地道に丁寧に
━━━ 研究やキャリアについて、今後の展望をお聞かせいただけますでしょうか。
- 自分が良い研究だと思うものを地道に一つずつ積み重ねていくこと。また、私は学生に責任をもって指導する立場になりましたので、自分の学生に対して良い教育をしていくこと。良い研究、良い教育、この二つをしっかり進めていくことが自分のこれからの仕事だと感じています。時には花火が打ちあがるようなことがあれば人生楽しいかもしれませんが、基本は一つ一つ地道に進めていくことをこれからも続けていきたいです。研究については、せっかく15、6年間同じテーマで取り組んでいますので、これからも同じようなテーマを大事にして励んでいきたいと思います。教育については、これから何十年と高齢社会が続きますので、豊かな高齢社会づくり、あるいは身体を動かすことについて悩む人が少なくなるような社会づくりに貢献できる人材育成をしていければと思います。一つずつ地道に丁寧に仕事をしていきたいです。
若い世代にはどんどん超えていってほしい
━━━ 学生時代にしておいてよかったこと、しておけばよかったことを教えてください。
- 関連領域の勉強をもっとしておいたらよかったと思っています。私自身のテーマでいえば心理学と運動生理学ですね。学部では心理学を学んでいたのですが、大学院ではスポーツ科学を中心に学び、スポーツ科学の刺激をたくさん受けながら過ごしました。その代わりに、心理学では今どのような研究がされているのか、追跡する作業をおろそかにしてしまったと感じています。行動変容の研究をする上では、心理学が基盤になっていますので、心理学の研究動向はもっとしっかり把握しておけばよかったと思っています。
- もう一つの関連領域として運動生理学を勉強しておけばよかったと考えるのは、運動の行動変容を考える上で、運動がどうして健康にいいのか、運動の健康効果のしくみをよく把握しておかなければいけないと感じるからです。論文を書くときや講演で運動についてお話をさせていただくときには、体の原理・しくみをしっかり理解した上で、人の行動を変えるにはというお話をすべきだと思っておりますので、学生時代には運動生理学をもっと勉強しておけばよかったです。
━━━ 最後に、若手へのメッセージをお願いいたします。
- これからの時代、研究のスタイル、研究への向き合い方、キャリアなど、研究者の在り方は、ますます多様になるのではないかと思っています。私が学生だった時代は、どちらかというと、「研究1本で頑張るのがかっこいい」という背中の見せ方をする先生方が多かったのではないでしょうか。しかし、今は、私と同じようなミドル世代の先生方は、家庭も仕事も比較的大事にしている方も多いのではないかと思います。おそらく、今大学院生の皆さんが学生に研究を指導してリードしていくときには、今よりももっと多様性が高まっていると思います。自分の得意・不得意を踏まえて、自分なりのスタイルを確立するために、若いうちに色々と経験していってほしいと思います。
- あともう一つは、“出藍の誉れ”、“青は藍より出でて藍より青し”という言葉がありますよね。師匠より優れた弟子を出すという意味ですが、この言葉は私の結婚式で、大学院生の時の恩師の中村好男先生(現 早稲田大学 スポーツ科学学術院 教授)にスピーチいただいた言葉です。分野全体として、ミドルやベテラン世代よりも若手の世代がより優れた研究者になっていくことが大事だと思います。スタイルの多様性で、みんなが研究一本槍じゃなくてもいいと言っておきながら矛盾するかもしれませんが、研究でとんがりたいと思う人たちは、ぜひ、今のミドルやベテランよりも優れた研究者になっていただきたいです。上の世代から見ても下の世代に超えていただくのは誉れですので、ぜひどんどん超えていってください。
原田先生から、研究を進める上での考え方や取り組み方等、大切なことを学ばせていただきました。
(細川、髙野、吉井)
原田和弘 Kazuhiro Harada
【略歴】2006年 大阪大学人間科学部を卒業後、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に進学。2008年 日本学術振興会特別研究員(DC1)を経て、2011年 同学 博士後期課程修了。日本学術振興会特別研究員(PD)、国立長寿医療研究センター 特任研究員を経て、2016年より神戸大学大学院人間発達環境学研究科 特命助教、2018年 同学 准教授に就任。
- ありがとうございます。おかげさまでこのような賞をいただけて、とても嬉しくありがたい気持ちです。また、講演の資料を作っていく中で、これまでのキャリアを見つめ直すことができ、恵まれた環境にいたということを改めて感じました。人間関係では、指導者、同僚、先輩、後輩など、研究室関係の恵まれた人たちに囲まれました。研究費の面でも、資金繰りにきゅうきゅうとすることもなくやってこられたのは、恵まれた環境に自分がいたからだと感じています。家族にもずいぶんお世話になりました。大学院に進むという意思決定を否定することなく、温かく見守ってくれた両親にも感謝したいと思います。また、結婚してからしばらくはギリギリな生活が続き、神戸に落ち着くまでは、所沢や名古屋と移り住むなど不安定な時期が長かったですが、妻はにこやかに一緒に人生を歩んでくれました。奨励賞ですので、これからもっと頑張らなければならないと思っております。
怪我で落ち込んだ経験をしたことがはじまり
━━━ 先生のご専門である身体活動や運動と行動変容といったテーマにご興味を持ったきっかけを教えていただけますか。
- 高校生の頃、野球を一生懸命頑張っていたのですが、2年生の夏休みに、腰を怪我してすごく落ちこんでしまったことをきっかけに心理学に興味を持ちました。大学受験の際に、文系に進んで心理学を学ぶか、理系に進んで機械工学または魚の養殖を学ぶかで迷いましたが、最終的に最も興味がある心理学を選びました。国公立大学の中から心理学を学べる大学を探そうとすると、その多くは学部が教育系と文学系の二つに分かれます。しかし、大阪大学は一つの学部で包括的に心理学を学ぶことができたので、大阪大学を志望しました。そして、心理学の中でどのような分野に興味があるかを考えたときに、腰を怪我して落ち込んだ経験に関連したテーマを勉強したいと思いました。当時はその中でも二つのことに関心があり、一つは心と身体の関係、心身相関のようなこと、もう一つはリハビリ、つまりは運動を上手に続けていくことが大変なのはなぜかということでした。大学3年のときに、これらを一番学びやすい、がん患者さんの心理学を専門としている研究室に配属を希望しました。研究室では、がん患者さんへの様々な心理学的アプローチについて研究していました。その中で、肺がん患者さんで普段身体を動かしている人の方が心の状態が良いのではないかということに焦点をあてたプロジェクトがあり、そこに参加させていただいたことが今日に至る最初のきっかけです。
背中を追いかける先生との出会い
━━━ 研究の道に進むことを決めた時期やきっかけを教えてください。
- 当時助手だった平井啓先生(現 大阪大学大学院人間科学研究科 准教授)と、特任研究員だった荒井弘和先生(現 法政大学文学部心理学科 教授)のお二人の先生にとてもお世話になりました。当時20歳ほどだった私にとって、30歳前後のお二人はとても輝いており、自分の5年後10年後を考える上でとても良い背中を見せてくれる先生でした。最近は教員と学生が濃密な人間関係を築きにくい時代になりつつありますけれど、15、6年前は今と比べると人間関係が濃かったんですよね。憧れの二人の先生方の背中を追いかけていきたいなぁという気持ちで研究の世界に入りました。
どうすれば多くの人が身体を動かすのか
━━━ 現在取り組まれている研究内容についてお話をお聞かせください。
- 卒業研究で初めて研究に触れてからこれまで、身体活動・運動をよくする人とそうでない人の違いは何か、また、どのようにすればより多くの人が身体活動・運動をするようになるのかということを継続的なテーマとして、研究し続けています。
- 具体的には、現在、行動変容に至るまでの道のりは人によって多様性があるという観点から、そのバリエーションに興味を持ち、いくつかの研究を進めています。一つは、その人個人の体質によって、運動の習慣化を効果的に支援するための方策は異なるのではないかという疑問に答えるための研究です。科研費の助成を受けて、村上晴香先生(現 立命館大学スポーツ健康科学部 教授)と、人々が生まれ持った遺伝特性が運動の習慣化に及ぼす影響について研究しています。
- もう一つは、私が所属する神戸大学のアクティブエイジング研究センターで行っているもので、夫婦など、周囲の人間関係が人々の行動変容に及ぼす影響についての研究です。
インタビュー後編では、若手へのアドバイス等をお届けします!
(細川、髙野、吉井)
『オンラインならではのメリットに目を向ける』学会運営
━━━ Withコロナの社会において、健康教育学会ができることや今後実施したいことについて教えてください。
- 新型コロナウイルス感染症(以下、コロナ)の影響で社会が大きく変わり、今までやってきたことができなくなりましたよね(学術大会が予定通りに行われなくなった等)。日本健康教育学会の良いところはこぢんまりしていて、学術大会でみんなが集まったら年配の先生と若手研究者で気兼ねなく話すことができるところ。それができなくなるということでネガティブな面はあるけれども、そのネガティブな中でできることを考えなければならないと思います。この学会は、多くの先生方ができることを考えてくださいます。Withコロナになって改めて、日常の生活習慣を考えることや健康状態を良くしておくことが、いかに重要であるかがはっきりしました。コロナによる自粛生活で、日常の健康を見つめなおすことが大事だと考える人が増えたのではないでしょうか。なので、学会としてもそれに応えられるようなことをみんなでやっていきたいし、取り組んだことをみんなで共有していけるようなしくみづくり(学会誌やメルマガやHPなどを通じての共有等)を加速させていきたいです。今回はオンラインでインタビューしてもらったけれども、オンラインのいいところもたくさんあります(交通費をかけずに情報を取得できる等)。そういう良い面に目を向けて、健康教育やヘルスプロモーションの活動の活性化を1人1人が行うと同時に、みんなが共有できる場として学会を機能させたいと考えています。
人とのつながりは財産!積極的な姿勢を大事に
━━━ 若手のうちに経験しておいて良かったことは何ですか?
- 色々な学会へ参加して、興味を持ったら直に質問に行くことを心掛けていました。色々な方と知り合い、お話しするチャンスを多くすることで、結果として人とのつながりが増えます。その経験のおかげで、何年か経ってまた自分が別の研究を行うときに、以前出会った先生に助けていただけることもありました。学会の運営等も、以前つながりを持った先生に助けていただける場面があることに時間を経て気づきました。研究を進める中で、研究自体は自分のテーマで深く追求しなければならないことですが、行動の範囲は自分に枠をつくらずに広くネットワークをつくっていくことが大切です。そういった人とのつながりは財産になっていきます。例えば、対面のセミナーの後に先生に声をかけてみることを物怖じせずにやってほしいし、懇親会でも積極的に質問に行く、オンラインセミナーでも積極的に発言することが大事。静かに参加しているだけでは気づいてもらえません。自分から行動を起こしておいて本当によかったと思っています。コネクションをつくりたい先生の講演ではチャンスがあれば質問をする。時間があれば終わってから追加質問を考えて挨拶にも行きました。質問しなければ存在を認めてもらえません。テーマに興味があったら行動を起こすということをやっていったほうがよいと思います。
━━━ 最後に、若手に期待すること、メッセージをお願いします。
- 若手の会は神馬征峰先生が理事長の時につくられて、それを続けてきてくれたことを嬉しく思います。自分たちで勉強することも大事ですが、話を聞きたい先生を呼んできてセミナーを企画する等、どんどんやって自分たちの力を高めてほしいし、研究や実践の質を高めることに力を注いでほしい。例えば、どこかの先生の話を聞きたいときに、1人だけで依頼するというのは難しいですよね。でも若手の会があれば組織を使ってそれができます。学会という組織に所属するメリットはそこにもあります。若手の会という組織をフル活用して、各個人の力を高めてほしいと思います。
武見先生から、コロナ禍での日本健康教育学会が行っていくべきことや、若手への期待を込めた熱いメッセージをいただきました。研究は「深く」、活動は「広く」、そして興味を持ったことには積極的に行動することの重要性や、「組織」として活動することの意義を実感したメンバーでした。(吉井、佐藤)
武見ゆかり Yukari Takemi
【略歴】慶應義塾大学文学部フランス文学専攻卒。編集社勤務を経て、香川栄養専門学校栄養士科卒、女子栄養大学大学院栄養学研究科栄養学専攻修士課程修了後、女子栄養大学助手、専任講師、助教授を経て、2005年より女子栄養大学教授(食生態学研究室)、現在に至る。
栄養学との出会い
━━━ 先生は、栄養学とは別の分野を学ばれてから、栄養学の道に進まれたと拝見しました。これまでのキャリアについてお聞かせいただけますか。
- 高校生の時から、フランスに興味があり、大学は、文学部のフランス文学専攻を卒業しました。卒業後は3年間ほど、広告や出版の企画をする会社で、海外旅行のガイドブック、イタリアのインテリアの本、東京の飲み屋のガイドブックなど、いろいろな出版物を作る仕事に関わらせてもらいました。そのときに、編集者としてはこの分野に強いといった、何か専門を持った方がいいのではないかと感じました。自分が人よりもできることがフランス語だったので、フランス語を活かせる分野は何かと考えたときに、ファッションか、食物か…ということになり、食物の勉強をしようと決めました。仕事を長く続けるためにというのが、栄養学と出会った動機。「栄養」という言葉は知っていたけれども、学問としての「栄養学」は無知で、ましてや管理栄養士や栄養士のことも全く知りませんでした。最初は通信とかで勉強しようと気楽に考えていましたが、結果として女子栄養大学併設の専門学校の栄養士科を受験して進学しました。仕事はアルバイトとして若干関わりながら、いずれは戻ろうと考えていました。
- でも、人生って面白くて。いざ勉強を始めてみたら、とても大事なことなのに、栄養や健康のことを、自分は何も知らないということに衝撃を受けました。しかし、何も知らないのは、私が大学で一緒にいた友人や、会社で一緒に働いていた同僚・上司も、みんな同じ。私たちが知らないことだけが悪いのではなく、情報を学ぶしくみ、情報の出し方やルートなど、社会のしくみも何か悪いのではないかと思いました。そうだとしたら、もう少し勉強しないと、この悪いかもしれないと思っているしくみ自体についてもよくわからないし、どうにもできない。それで、女子栄養大学の大学院に進学することを決めました。
━━━ 大学院ではどのようなことを研究したのですか?
- 大学院では、最初は指導教員の足立己幸先生(女子栄養大学名誉教授)と、食環境としての情報発信に関する研究を、というような話し合いをしていました。しかし、そもそも、その前に基本をちゃんと勉強しなさい!となり、まずは、高齢者の食事記録の聞き取り調査に関わらせてもらうことからスタートしました。これがとても面白かったです。もともと文学をやっていたので、人の暮らしや生活、ライフヒストリーに非常に興味がありました。食事を聞き取るだけでその人の生活や家族、色々なものがみえる。それに様々なことが影響しているのもわかる。その深さを感じました。面白いと思っていたところに、ちょうど助手のポストがあき、この面白い調査を続けられて、かつこれを仕事にできるのであればやりたいと思い、大学に残りました。だから研究者になりたかったとか、もっというと大学教員になりたかったという気持ちは全くありませんでした。今となってみれば教えるのが面白いと思ったのはもっと後だと思いますが、調査をやり、報告書や論文にまとめることが、面白かった。それが仕事になるのが幸せだと感じていました。
━━━ 教えることが面白いと思ったきっかけはありますか?
- あまり意識したことはないですが、毎年学生は変わっていくし、卒研生や院生も常に変わる。相手が違えば、いつまでも飽きない。授業や教える内容が決まっていても、教える相手が違えば、やり方を変えなきゃいけない。そこの新鮮さ、面白さはありました。また、自身の子どもが小学校に上がるときに、いわゆる「お受験」を経験し、子どもとしっかり向き合って働きかけていけば、人は変わるということを実感しました。そのようなことから、人に教えるというとおこがましいけれど、一緒に考え、その人が考える手助けをすることは面白いことだなと思い始めました。
取り組んだことが形になる仕事のやりがい
━━━ 先生がこれまで研究を進められてきて、苦労されてきたこと、やりがいを感じたことはどのようなことですか?
- 苦労したことはたくさんあったと思うけど、基本的に忘れっぽい性格なので、30年以上仕事をする中で辛くてしょうがなかったということはほとんどありません。どちらかというと、私は好きなことを仕事にできて幸せだと感じることの方が多かったです。やりがいは、教育の面でいうと、大学院生が仮説を立てて、調査をして、結果が出たときは、本人もすごく喜ぶけど、私もすごく嬉しい。それが形になって論文になって、社会に発信できればもっと嬉しい。常に刺激があるのはとても幸せな仕事だなと思います。また、研究だけではなく、国の政策に関わることも多いので、自分たちのやってきたことが制度に残る、何かが作られるなど、取り組んできたことが政策として動いていくことが見られることにやりがいを感じます。
助け合うことの大切さ、子育てで得られること
━━━ 子育てと仕事はどのように両立されてきましたか?
- 子育てと仕事の両立はたしかに大変でした。ただ、私が恵まれていたと思うのは、夫が子育てに熱心で、母や義母といった家族のサポートも得られたこと。一人ではやってこられなかったと思います。また、研究室の皆や指導教員の足立己幸先生、スタッフさんも、とても理解してくれました。だから、逆に今は私が、子育て中の若手の先生やスタッフを支えて、続けられるようにと心がけています。自分がそうしてもらって仕事を続けてこられたから。また、子育ても仕事も両方していた方が、人生は楽だと思います。どうしてかというと、子育てでとても大変だったり、何か問題があったりすると気になる。でも、仕事をしていたら嫌でも忘れますよね。逆もいえる。仕事で嫌なことがあっても、家に帰れば子どもの相手をすると忘れてしまう時間ができる。色々なものを持っている方が、どちらかががつらいときに、もう一方でそれを忘れたり、補えたりが可能になります。これはやってこないとわからないこと。だから私は若い人たちに、仕事も結婚も子育てもみんなやった方がいいと勧めています。色々あることで成長もできるし、ある意味で楽にやっていけると思っています。
これからじっくりと取り組んでいきたいこと
━━━ 先生は色々な研究をされていると思うのですが、今最も力を入れて取り組んでおられることは何ですか?
- 今は、一番は食環境整備。そういう意味では、最初に考えていたこと、つまり社会のしくみを整えていくことに戻ってきたと思います。食環境整備の中には、生産・流通も含めて食物そのものをどのようにしていくかといった、フードシステムに関することと同時に、情報をどのように出していくかが含まれます。行動変容のことも色々やってきたけど、これからは、食環境をどう整えていくかということを主にやっていきたいです。しかし、環境整備はなかなか効果がみえにくい仕事です。環境側で何ができたかがわかったとしても、それによって人々がどう変わるかの評価はとても難しくて、手ごたえの得にくい仕事。だけど、私くらいの歳になると、目先の業績にこだわらず、じっくり構えてやればいいと思っています。これまで色々やってきたけれども、最後ここにきて落ち着いてやっていきたいと思っています。
2021年1月ZOOMにて
インタビュー後編では、コロナ禍における学会運営と若手へのメッセージをお届けします(佐藤、吉井)
身体を動かすことが楽しいと思ってもらえるような、「健康を自分事化する」教育
━━━ 学生教育をされる上で、なにか心がけていることなどはありますか?
- 私は現在、ウェルネススポーツという、生涯スポーツを扱う体育実技や、健康教育のような座学(講義)を必修科目として担当しています。スポーツに関する授業を行うときに、もちろん文学部にも運動・スポーツが好きな学生もいますが、「なんで文学部に来てまで体育があるの?それに絶望した」と言われることもあります。そのような学生たちを私は技術とかスキルで評価はせず、得意な人は苦手な人に上手に伝える・苦手な人は得意な人に聞くとか、皆で出来るようになることを大切に、楽しめる授業を進めるようにしています。学生からは、「身体を動かすことが初めて楽しいと思った!」という声もあります。絶望したとまで言っていたのに、一年が終わる頃には気持ちや行動が変わるのを見ると、これって、人はどうしたら身体を動かすようになるのかということの答えの一つだなと思います。
- 大学生になると、色々なことを選択できるようになりますよね。生活習慣もその一つ。自分で選べるようになったこの時期に、座学の授業を通じて、健康に関する考え方や正しい情報の探し方を伝えることが大切だと思っています。知識の詰め込みではなく、「健康を自分事化する」ということを意識して授業を進めています。これもヘルスコミュニケーションの一環だと思います。私の授業の特徴として、行動科学のエッセンスをちょっとずつ盛り込んで、楽しく学べるように頑張っています!
━━━ 先生がされている健康教育は、どの分野の学生に対しても必要だなと感じます。
- 必要かどうかは分からないけれども、損はさせたくないと思っています。多くの学生が大学院へ進学するより社会人になっていくのでしょうから、社会人経験のある私が大事だと感じたことをより伝えてあげたいです。ディスカッション形式の授業では、「今の大学生だったらどうすれば伝わるか?」を議論してもらいます。そうすると、私の研究のヒントになる事が出てくることもあるんです。「研究」と「教育」は直接リンクしなくても、ヒントや新たな気付きをくれるものだと思います。
もう無視できない「SNS」、多様な人との「協働」が発展のカギ
━━━ 今後はどのように研究を発展させていきたいとお考えですか?
- 今興味があることの一つは、「SNS」です。ネット上でわりと自由に発言できるようになってきたので、そこに着目すると人の行動が見えるんじゃないかと思って。例えばTwitterとか、あとGoogleトレンド。まさにああいうネット上のマスからの情報の拾い方、情報の整理の仕方を考えていきたいです。少し前まではテレビが大きなコンテンツだったのに対して、ネット上の情報が無視できなくなった。なので、ヘルスコミュニケーションの一つのチャネルとして考えていきたいと思っています。
- 二つ目は、学校教育に携わったことによって、人を介してのコミュニケーションの大切さは感じるので、現場ですね。小中高の教育現場や、地域の保健師さんがやっている現場もそうです。その「リアルな世界」と今までやってきた研究を含め「バーチャルな世界」が直接リンクする可能性や、両方を知るから考えられることがあるかもしれない…というような広げ方をしていきたいです。
- 三つ目として、今まで取り組んできたマスメディアにも解決すべき課題も残っています。マスメディアで働く人、実際に情報を作る人、現場で健康教育を行っている人との「協働」は大事になってくるし、研究を意味のあるものにしていくためには重要だと思っています。
『失敗を恐れない』『スタートとゴールを確認する』『自分軸を作る』ことを大切に
━━━ 若手へのメッセージやアドバイスをお願いします!
- 若い頃は、色々な経験をしたら良いと思います。失敗したらそこから学べば良いだけなので、とにかくやってみることを大事にして欲しいです。その一方で、私の大学院生活を振り返ると、私は3年間と決めて博士課程を過ごしていて、一応計画通りに研究も進めてきたつもりです。それが出来たのは、研究に対してかなりの時間を使ったし、そう過ごしていると、迷いもなく集中できました。なので、大学院生の間は研究や、研究に付随するようなことを一生懸命やるのが近道だと思います。
- そのなかで大事なことは、「なぜ大学院に進学したのか、なぜこの研究をしようと思ったのか」、時々、原点に立ち返ることです。でも、色んなことを知り、さまざまな人に会ううちに、分からなくなったりぶれたりするんですよね。そういう時は、途中で一回自分の原点を振り返ると、「ここが原点だからこっちが良い」とか、決めやすくなります。スタート地点を振り返るのと同時に、自分はどこに向かっていたのかを確認する。そうすると、自ずと今やらなければならないことが見えてくると思います。
- それを繰り返していくと自分の軸ができて、自分の軸があることで先の選択ができるようになっていくので、若いうちはその自分軸を作るということが大切ですね!あとは、最後は自分で決めること!私も、「がん」や「ヘルスコミュニケーション」のきっかけは先生からいただきましたが、最後にやると決めたのは私自身です。やると決めたのは自分!と立ち返ることができれば、多分頑張れると思うんです。だから若い人には、『失敗を恐れない』『スタートとゴールを確認する』『自分軸を作る』ことをしてもらいたいなと思います。
失敗を恐れず挑戦すること、自分の研究活動のスタートとゴールを見据えること、自分軸を持ち、貫くことなど、心に響くお言葉を沢山頂くことができました。
これらの言葉を胸に、今後も研究に精進していきたいと思います!(細川佳能、渡邉紗矢)
宮脇梨奈 Rina Miyawaki
【略歴】2014年 早稲田大学スポーツ科学学術院 研究助手.2016年 早稲田大学スポーツ科学研究科 博士課程修了.2017年より明治大学文学部 専任講師に就任.
━━━ 奨励賞受賞おめでとうございます!受賞のご感想をお聞かせいただけますか?
- ありがとうございます。まず初めに今までご指導いただいた先生方、日本健康教育学会の中でご助言いただいた先生方、今回推薦、選考してくださった先生方に御礼申し上げます。併せまして、私自身大学院生のときから日本健康教育学会での発表や論文掲載を目標にして研究を進めてきたため、学会そのものにも感謝しています。
運動や健康に関して、正しい知識を伝えたい
━━━ 社会人経験を経て、大学院への進学を決意されたきっかけを教えてください。
- 私自身、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科(現 スポーツ科学部)出身で、スポーツや身体を動かすことは健康にとって良い効果があるということを学んで卒業しました。しかし、社会に出てみると運動が嫌いな人もすごく多いことに衝撃を受けました。さらに、たくさん健康や運動に関して良いことが分かっているのに、皆知らないことにも驚きました。でも、知りたいと思っても、難しい情報も多かったり、情報が溢れすぎていたりして、何が正しいのか判断することが難しい。それがすごくもどかしかったです。
- これを解決する一番良い方法は、研究者や医師のような専門家の方に一般の人に対して分かりやすく説明してもらい、正しい情報を適切に伝えていくことだと思います。しかし、そのような専門家の方々が伝える専門家だとは限らず、現実的には難しいこともあるようにも感じました。それなら、私が分かりやすく伝えられる人になりたいと思いました。そのためには何が必要なのか、どうすれば正しく良い情報を適切に伝えられるのか学びたいと思って大学院に進学しました。
ヘルスコミュニケーションとの出会い
━━━ そのようなきっかけが、現在のヘルスコミュニケーション研究につながっているのですね。
- 実は、進学をしたいと思ったときにはヘルスコミュニケーションという分野があることを知りませんでした。私は学部生のとき、身体行動科学というゼミに所属していたこともあり、人の行動変容には興味がありました。そのことを大学院の指導教員の岡浩一朗先生(現 早稲田大学スポーツ科学学術院 教授)の元へご相談に行ったとき、「ヘルスコミュニケーションという分野がある」と教えていただきました。ヘルスコミュニケーションには行動科学がベースになっている研究もあり、私の中では親和性がすごく高くて。その当時は、運動・スポーツだけでなく、健康にすごく興味がありました。そのため、人はどのように健康行動(身体活動量の増加など)を獲得していくのかという研究だけではなく、健康に関する良い情報を伝える方法の研究もできる、自分のやりたいど真ん中のものがあった!と興味を持ちました。
━━ なぜ「がん」や「マスメディア」に着目をしてご研究をされているのですか?
- 「がん」と「マスメディア」は、これまでの私の研究のキーワードになりますが、二つはくっついていたわけではありません。まず、なぜがんだったのかについては、色々な健康情報や疾病がある中で、がんが一番取り組みやすいと考えたためです。大学院進学当初は、研究のやり方も分からず、分からないものを分からない題材で取り組むのが難しいと思っていたときに、指導教員の岡先生からがんの予防には身体活動や運動もとても大事ということを聞き、また自分の中で親和性を感じました。まだ日本ではヘルスコミュニケーション分野の研究が十分に行われているとはいえない段階で、まずは何を題材にすると検討しやすいかという点からもよいテーマだと思いました。「がん」を知らない人はいません。だけど「がん予防」と言われると、出来るような気もするけど、あまりよくわからないというところで、ヘルスコミュニケーションが活用できる可能性が高いと思いました。また、がん予防について研究が進めば、生活習慣病全般に応用していけると思い、がんというテーマを選びました。
- もう一つ、マスメディアですが、以前の仕事でマスメディアや情報を扱ったこともあり、研究を行う上でイメージしやすいチャネルでした。あとは、マスに対して訴えるチャネル、情報源を使ってみたかったです。例えばこれが、「タバコは良くないですよ」という情報だったら。タバコが身体に良いと思っている人は今の時代そういないので、この場合は対象者を特定し、その対象者に合ったチャネルを選べば良いと思います。でも、がん予防の認知度は高いとは言えず、国民に広く伝えたいと思ったときには、何か特定のチャネルだけではなく、「マスメディア」というように広く伝えるチャネルが有効だと思い、マスメディアに着目しました。
━━━ 先生はどの媒体を通して情報を発信していくのがより効果的だと感じていらっしゃいますか?
- その答えに私自身も至ってはいないと思うのですが、やはり、情報の中でも「何を」伝えたいのか、「誰に」伝えたいのかを両方見た上で決めていくことが重要だと思います。ましてや、今のように社会が多様化してきたときには、「これを使ったら絶対良い!このチャネルが正解!」というものが無くなってきて、先ほどの何を、誰に、さらにはどのようなタイミングでということを選ぶことがすごく大事になってくると思います。
━━━ 大学教員になろうと思った理由を教えてください。
- 博士後期課程3年生のときには進路に迷いましたが、自分が学んできたことを還元したいという思いと、大学教員であれば、研究が続けられると考え、教員の道を選びました。あとは、学生に健康に関することを伝えるのも、授業をチャネルとしたヘルスコミュニケーションだと思っています。ですので、ヘルスコミュニケーションや健康情報を伝えることを実践する場所、ルートという点で大学教員が良いと考えました。私は現在文学部に所属しているので、スポーツ・運動・身体活動や健康に必ずしも興味がない人たちに伝えることもすごく意味があると感じています。
インタビュー後編は、宮脇先生の現在の研究内容や若手へのアドバイスをお届けします!
(細川佳能、渡邉紗矢)
困っている人の力になる研究がしたい
━━━ 現在の研究や今後の展望について教えてください。
- 今私が一番頑張りたいと思っているのは、食事を通じて子どもたちを支援する研究です。食事提供に代わる、違うやり方で食事支援ができないかと考えています。食事を提供するだけでなく、子どもの成長につながるような食事支援ができたら面白いかなと。そんな思いから、食事を作るところから子どもたちと一緒にやっていくという活動を実施してきました。人の力になるような研究ができたら良いなと、常々思っています。
━━━ 食事支援に注目されたきっかけはありますか。
- 全国的に見ても食事支援を必要としている方はたくさんいらっしゃるのではないかと思い、始めました。学校教育だけではなく、地域などでの支援が今後より一層必要になると思い、地域における食支援に着目しました。
━━━ 作るところから一緒にやっていく、という活動をもう始められているのですか。
- 去年までは、研究室の学生と一緒に対面で食事の支援を行っていました。しかし、今年はコロナ禍により、子どもたちを集めて、対面で調理をして会食をすることは、できなくなってしまいました。現在は、研究室の学生とアイディアを出し合って、遠隔による活動を行っています。今年の夏は、希望者には食材を提供したうえで、参加者に調理動画を読み込むQRコードを送り、動画を見ながら料理を作ってもらいました。回が進むにつれて、難しい料理になっていくというゲームのような感じで、実施しました。子どもたちと保護者にはなかなか好評でした。研究室の大学院生と4年生が、調理動画を非常に上手に作ってくれるなど、頑張ってくれました。私一人では実施できないので学生さんには感謝しています。
━━ プログラムを実施する際、本当に支援の必要な人に届けることは難しいと思いますが、何かお考えがあればお聞かせください。
- 本当にそうですね。根本的に違う情報の発信をしなければいけないのではないかと思っています。研究ということもあって、困っている人だけを集めることは難しく、やはり自由に参加してもらう形になってしまいます。しかし、やり方を一つ提案できれば、他の人が、もっと良くしてくれるかもしれません。そういう意味では、まずは自分たちが行っている取り組みを、発信できれば良いかなと思います。
自分で決断し、与えられた道で自分らしく頑張ること
━━━ 最後に、若手の実践活動者や研究者に向けたメッセージ、アドバイスをお願いします。
- アドバイスやご助言をいただいたときは、ありがたく耳を傾けます。しかし、「最後は必ず自分で決める」ということを大事にしてきました。失敗や、うまくいかないことがほとんどでも、逆にそれが重要な学びになるので、必ずしもうまくいかなくても良いのではとも思っています。うまくいかなかった場合、忍耐強く頑張る人もいると思いますが、他のことに挑戦するのも悪くないはずです。きっと、どちらも正解です。学会HPの過去の学会員インタビューの中に、高倉実先生の「大学院生のうちは指導教員がいるし、就職してからも講座制なら教授の先生がいて、指導してもらうことができる。しかし、そういう環境がない人は、査読者を指導教員だと考えるのも一つの手だと思います」というコメントがあります。私はこのコメントに背中を押していただきました。論文を投稿した際には、いつもありがたい査読をいただき、査読者の先生、編集委員の先生にはとても感謝しています。もちろん心がへこむこともあります。自分では気づかない点をご指摘いただけるので、できるだけ投稿させてもらうようにしています。本当は自立しなければいけない立場ですが、論文投稿をし、学びを得ることも良いやり方だと思っています。自分で考えて決断した時は、それが正しかったのか、正しくなかったのか、そのときはわかりません。何年かたった後に、あの時の決断は間違っていなかったと思えるように頑張ろうと思っています。
さまざまなご経験をされてきた坂本先生にインタビューをさせていただき、自分で決断し、その決断に後悔しないよう、努力することの重要性を学びました。
(吉井、井邉、柄澤)
坂本 達昭 Tatsuaki Sakamoto
【略歴】青年海外協力隊 栄養士隊員として勤務後、大阪市立大学大学院生活科学研究科後期博士課程に進学、2013年修了。仁愛大学人間生活学部健康栄養学科講師を経て、2017年より熊本県立大学環境共生学部食健康科学科講師、2019年より准教授。
“できなかったこと”が原動力に
━━━ 奨励賞受賞おめでとうございます!受賞のご感想をお聞かせいただけますか?
- 素晴らしい先生がこの賞を受賞されていますので、そういった先生方と同じ賞をいただけたということは、とても嬉しく思っています。これまでに、栄養系の素晴らしい先生方がたくさん受賞されていますので、私もいつかはと思っていましたが、まさか受賞できるとは思っていなかったので、とても嬉しいです。
━━━ 先生が栄養の道に進んだきっかけは何ですか。
- 高校に入学した頃は、家庭科の教員になりたいと思っていました。学年が進み、いろいろと考えていくうちに、家庭科の中でも栄養学の分野は一番役に立ち、面白そうだと思い、栄養学の道に進みました。将来的には食品メーカーで働きたいという思いもあり、修士課程では、食品の機能性に関する研究をしていました。
━━━ 青年海外協力隊に興味を持ったきっかけを教えてください。
- 高校2年生の時、黒柳徹子さんの講演を聞く機会がありました。黒柳さんはユニセフの親善大使として活躍されておられ、海外の厳しい状況などについて話をしてくださいました。途上国の人の助けになる手段として、青年海外協力隊を紹介していただき、面白そうだなと思ったのがきっかけです。この時からいずれはチャレンジしたいなと思っていました。修士2年生の時の就職活動では、企業を第一志望に考えつつ、合わせて協力隊も受験しました。協力隊は様々な分野がありますが、大学で栄養学を学び、学んだことで役に立てればと考えていました。志望していた企業から内定をいただいた後に、協力隊の合格通知がとどきました。進路選択の際は、かなり悩みました。最終的には協力隊の方が、自分の成長につながりそうだと思ったので、協力隊に参加することにしました。
━━ 栄養士隊員として、どのような活動を行ったのですか。
- 中米のパナマで、地方都市の病院に配属されました。パナマでは、先住民の自治区では、感染症で亡くなる方が多くいらっしゃるのですが、私が配属された地域では、日本とほとんど同じで、生活習慣病関連の疾患で亡くなる人が多かったです。そのため、私は栄養士隊員として、生活習慣病対策に関する業務を行っていました。病院に来る患者さんに、食事や栄養のことを指導したり、地域の小学校を巡回して子どもたちに授業をしたりしていました。当時の自分としては精一杯やったつもりですが、地域住民の方々にはあまり貢献できませんでした。成果を残せなかった悔しい気持ちが、帰国後の「もっと学びたい」という気持ちにつながりました。
━━━ “成果を残せなかったこと”は、どのようなことがありましたか。
- 対象者の方々に知識を提供することはできましたが、食習慣や行動が変わるかというと、そうでもなくて…。「言っていることはよくわかる、大事だよね」と。行動に移してもらうためには、どうしたら良いのかを、もっと学びたいと感じました。
- 当然、着任当初は現地には自分のことを知っている人は誰もいませんし、言葉もうまく通じません。そういった環境で、ゼロから人間関係を築いていくことは、とてつもなく良い経験になりました。この経験のおかげで、今も新しいところに飛び込んで行くことは、比較的抵抗なくできる気がします。
学生に伝えることの楽しさ
━━━ 協力隊から帰ってきてからのご経験について教えてください。
- もともと食品メーカーで働きたいと思っていたので、協力隊から帰ってきてからは、食品メーカーで1年半ほど働きました。そんな時に、修士課程在学中にご指導頂いた先生から、大学1年生に向けて、これまでの経験について講義をしてくれないかというお話をいただきました。その時、会社で働いている時には感じたことのないワクワク感がありました。講義を準備している時も、どうしたらわかってもらえるか、話が伝わるか、を考えるのが楽しかったです。講義をした時の学生さんの反応が良くて、やってよかったという充実感がありました。そして、講義の後に大学の先生とお話した際に、教員としての道もあるということを聞いてから、協力隊の時の、「うまくできなかった」「もっと勉強したい」という気持ちを思い出しました。その後、会社で働きながら、いくつかの大学の先生の研究室を訪ねたうえで、大阪市立大学大学院に進学し,春木敏先生にご指導いただき学位を取りました。
インタビュー後編は、坂本先生の現在の研究内容や若手へのアドバイスをお届けします!
(吉井、井邉、柄澤)
管理栄養士養成課程の立ち上げ
━━━ 青森県立保健大学に移った経緯を教えてください
- 青森県立保健大学には、12年前に栄養学科が新設されるタイミングで赴任しました。新設に際して、公衆栄養学担当の教員を紹介してほしいと頼まれたのですが、なかなか見つからず・・・「責任をとって自分で行くか」と決めました(これも、流れにまかせて・・・です)。
- 既存の短大等をベースにするのではなく、まったく一からの出発というところが良いと感じました(パイオニア精神です)。専任で大学教育に従事することは初めてですが、研究所にいるときから公衆栄養学の教科書を執筆し、いくつかの大学で公衆栄養学を教え、公衆栄養学のファカルティ・ディベロップメントにも関わっていたので、管理栄養士養成教育には興味がありました。また、日本は良い意味でも悪い意味でも「通知行政」で、中央政府が通知を発出すると全国津々浦々に広がります。これまでは、中央政府が発出する通知の中身(ガイドライン、検討会報告書など)をつくっていたのですが、それを受けて実際に地方でどうなっているのかは良く分かっていませんでした。そういう意味でも、ローカルなところで、現場に近いところで、仕事をするのも楽しいだろうと思いました。
- また、地方行政における栄養分野は、保健師などと比べるとラインの人数も著しく少なく(国の方は20~30年前と比べると格段に栄養技官の人数が増えました)、組織的なキャパシティビルディングやエンパワメントが難しいと感じています(今、青森や秋田県などでお手伝いをさせていただいていますが・・・)。管理栄養士養成課程の教育(卒前)と大学院を含めた卒後教育のつながりの中で、公衆栄養人材のキャリア開発ができれば良いのですが・・・現在チャレンジ中です。
━━━ 授業で工夫されていることはありますか?
- 学生時代、私自身「公衆衛生」の授業には興味を持てないでいました(地下鉄工事現場や下水処理場の見学だけは覚えていますが・・・)。今は、出席が厳格なので学生さんたちは講義には出てきますが、きっと「公衆衛生学(社会・環境と健康)」は面白くない科目の一つでしょう。そこで、教科書(自分が編者ではありますが、もちろん面白くありません)的な事はポイントのみを示して、いくつかのトピックについてグループワーク中心に授業を行っています。例えば「環境衛生」では、途上国の水問題についての資料を渡して、グループで話し合い発表してもらうようにします。水は人が生きていくうえでの基盤で、健康という点でも中心的な課題の一つです。日本では当たり前に水道水が出て、とても恵まれているけれども、途上国では全く違います。そのことから格差や、ジェンダー、教育の問題などを含めて様々な社会的背景を考える教材として「水問題」は適しています。管理栄養士国家試験には直接役立ちませんが、本質的に大事なことが少し心に残るような授業を心がけています。
与えられた機会と周りの人への感謝
━━━ 若手へのメッセージをお願いします
- 信念を持って一筋にやるのも素敵だけれど、都度与えられた機会と周りの人に感謝し、与えられたことをやりながら、自分の目指すことについて少しずつ進めて行くことが出来れば良いのではと思います。私自身はこれまでお話したようにふらふらしてきましたが、最初の出発点から現在に至るまで一応繋がっているようにも思っています。
“Comfortable”な空間を目指したい
━━ 学術大会に向けた想いを教えてください
- 学術大会って何のためにあるんだろう...と考えてみましょう。意外と明確な答えは出てこないかもしれません。私は、参加されたみなさんが「時間と空間を共有し、その時間がお互いにとってプラスになり“Comfortable”であれば良い」と思っています。
- 例えば、これはオリンピック等にも言えますが、主催する立場は、コンテンツの多さなど前例を見ながら、より密度の高いものにしようとしますよね。しかし、右肩上がりで頑張ろう!ということが、本当に良いことなのだろうか・・・と疑問に思っています。それは、健康教育、Health Educatorとしても大事なことかもしれません。「頑張らない」、良い意味での適当さ、多様性というのを許容しながら、参加者一人一人にとって良かったなと思える場をつくることが、学会の開催でも、健康教育でも大事なのではないでしょうか。
- 青森で開催される今回の学術大会は、「ふわっと、ゆったりとした時間」と、「comfortableな空間」を目指していきたいと考えています。加えて、研究や実践に活かせるような「秘密の仕掛け」(ナッジ??)を準備したいと思っています。
吉池先生から若手へのメッセージと学術大会への想いを伺いました。吉池先生が学会長を務められる学術大会に是非ご参加ください。(吉井、細川、赤岩)
※第29回学術大会は、新型コロナ感染拡大予防の為、残念ながら、来年度に延期になりました。2021年青森での学術大会をお楽しみに!
吉池信男 Nobuo Yoshiike
【略歴】東京医科歯科大学医学部卒業後、小児科医として病院に勤務。その後、国立健康・栄養研究所で、国の健康・栄養政策、各種ガイドラインの立案・策定に関わる。2008年に青森県立保健大学栄養学科長に着任(現在は社会貢献担当理事)。
人との関わりを軸に進んだ道
━━━ 先生は医学部のご出身ですが、医学部を選んだ経緯について教えていただけますか?
- あまり深くは考えずに、その場その場のご縁ときっかけで進路を決めていました。ただし、その後の進路変更も含めて、すべて自分で決めたと思います。医学部に行こうと思ったのも、それほど強い信念があったわけでもなく、家業を継ぐわけでもなく、人に勧められたからでもありません。興味・関心は理系と文系の両方にあり、もう少しきちんと考えていれば、今頃都市工学をやっていたかもしれません。ものづくりや理系的な思考と、社会の関わりについての癒合でしょうか。医学部に行ったのは、人との関わりのなかで色々なことができるのではないかと・・・。
━━━ 小児科医を選んだ理由を教えてください
- 人との関わりのなかで、病気を治すことだけで無く、子どもたちの育ちのプロセスに関わりたいと思いました。学生のときの近未来の自分の像は、地球のどこかで小児科医をやっていることでした。
━━━ 小児科医としてのご経験について教えてください
- 小児科研修医として最初大学病院に入ると、思い描いている小児科医の像とは違いました。2年目に市中病院に出ると、小児科には素敵な先生方がいて、その後のキャリア形成の多くは小児科の先生方から学びました。患者さんから、お母さんから、先輩の医師から、看護師さん達からも、素敵な体験をいただきました。例えば喘息の患者さんには、アレルギーや呼吸器等の生物学的メカニズムでは、割り切れないことがたくさん起こります。心理社会的な要因や家庭環境も非常に大事です。また、新生児集中治療室(NICU)でトレーニングする中で、栄養に関して興味関心を持ちました。このような経験から、「子ども」と「栄養」という流れはできたと思います。病院のシステムについては、研修医のくせして随分生意気なことを言っていました。小児医療というのは一生懸命やればやるほど、疲弊もしてしまいます。特に救急外来を持続可能なものにするために色々考えました。例えば、深夜の救急等で患者さんが来ると、医者は必要な検査やレントゲンをオーダーします。中には、緊急で検査をオーダーしておきながら、そのまま見ないで寝てしまう医者もいます。私は緊急性が高い場合には、採血をした後自分で検体を検査室に持って行き「結果が出るまでいます。レントゲンも待っているから」と粘ります。そうすると担当する技師さんたちも一生懸命やってくれます。クライアントにとっても、スタッフにとっても良い働き方って何だろうと、若いなりに考えて、日常診療からさまざま学びました。もう少ししたら小児科医に戻りたいと思っているくらいです。
小児科医から国立健康・栄養研究所へ
━━ 国立健康・栄養研究所で働くことになったきっかけ、ご経験について教えてください
- 小児科医として4年間働き、たまたま誘われて国立健康・栄養研究所というところに行きました。気持ちはあくまでも小児科医で、国際保健にも興味を持っていたので、専門のベースとして栄養と公衆衛生・疫学があった方が良いのではと思いました。何年かしたら小児科医に戻るつもりでした。
- 栄養教育、臨床栄養、栄養疫学については、小規模な勉強会にいくつか参加して勉強しました。その当時は、「プリシード・プロシードモデル」がまだ日本では広くは知られておらず(1992年頃)、こういうのも大事だねと議論をし始めた頃でした。また、研究所の研究員の職に加えて、当時の厚生省の「健康増進・栄養課」に併任しました。厚生省では1997年頃から「第3次健康づくり施策」として「健康日本21」の検討が始まりました。そこで私は、アメリカのHealthy People 2000(1990)を調べ、資料作成等に携わりました。その後検討会が始まり、健康日本21(第1次)の検討委員会の委員にもなりました。栄養・食生活分野の分科会では、武見ゆかり先生(現 女子栄養大学栄養学部 教授)と私が報告書作成等の作業を行いました。その中にある(栄養・食生活と健康・QOLの関係を示した)図は、プリシード・プロシードモデルを90度回転した形になっています。あれは、その前に行われた「21世紀の栄養・食生活のあり方検討会」の報告書(表1)に掲載されている図を改変したのですが、オリジナルの図はその検討会の事務局として私が描いたものです(図1)。こちらの方が、プリシード・プロシードモデルの影響が色濃く出ています。
その後2004年の「健康づくりのための食環境整備に関する検討会」では、「食環境」の部分が大きくなった図ができました。これはみなさんもご存じですね。
37歳くらいで図らずも研究所において管理的な仕事をすることとなり、組織をどうしていくか、研究所統合の議論を含めて対応することとなりました。このとき、小児科医としての経験も大いに役立ちました。また、国民健康・栄養調査(当時はまだ「国民栄養調査」)では、食事調査等の方法の標準化や調査員のトレーニングの系統化などの仕組みをつくりました。例えば、現在も使われている国民健康・栄養調査方式の食品番号表や、調理コード・重量換算のロジック等もこの当時(2000年当たり)の仕事です。また、国民健康・栄養調査や都道府県の調査を健康増進計画や施策にどう反映させていくか等についても、現場の方々と様々な取組を行いました。ここでも多くのことを行政で働く管理栄養士の方々から学ばせてもらいました。
このように、対個人レベルから組織レベル、政策レベルで様々な仕事を経験させてもらいました。その間、周りの方にも恵まれて、楽しんで仕事をさせていただくとともに、自然に「ヘルスプロモーション」のマインドを身につけることができたようです。
忙しさが研究の動機付け
━━━ 現在、取り組んでおられる研究を教えてください!
- 今は、受賞講演でも紹介した「食生活リテラシーに関わる要因の検討」を継続して、教育の合間に、ちょこちょこと進めています。これまでは、食生活リテラシーが高い人や低い人の特徴という視点で食生活リテラシーの関連要因を検討してきました。現在は、どういう人(経験)が食生活リテラシーを高めているのかという食生活リテラシーの形成要因を研究しています。
━━━ これまでの研究を進められてきて、苦労したことはありますか?
- 一番苦労したことは、英語ですね。英語が苦手で、聞く・読む・書く・話す、すべてに苦労しました。今は、研究内容をディスカッションする環境が今の周りには無く、少しさみしく感じることもあります。研究で分からないことなどがあったときは、大学院時代の先輩に相談しています。
━━━ では、どんな時にやりがいを感じますか?
- 考えることが好きなので、「こういう要因が気になるな、関係あるかな」と仮説を立てて、調査して、出てきた結果を見てみる、というプロセスがやりがいを感じます。あと、論文執筆に一番労力を使うので、論文が受理されて、手元にその雑誌が届いたときもやりがいを感じます。
━━ 若手の中で研究のモチベーション維持が難しいという悩みもあります。維持する方法があれば、ぜひ教えてください!
- 今は教育の合間に空いた時間で研究をしていますので、研究時間があまり無い状況が、私にとって研究のモチベーションになっています。授業期間中は授業の準備と学修指導、委員会業務等で1日が終わってしまいます。そのような研究の時間がとれない時も、頭の中で研究計画やデータ解析の計画を考えておき、長期休暇で時間が取れたときに「いっきに進めてしまおう!」という具合で。なんだか変な回答ですが、私のモチベーション(動機づけ)は、「研究する時間がない」ことです(笑)。
現場での研究経験、研究での出会いを大切に
━━ 今思うと若い頃にしておいて良かったな、と思うことはありますか?
- やっぱり、ある程度の数の論文を書いたということ。そして、その分、たくさん査読意見をいただけたことですね。厳しい指摘もいただきましたが、そのおかげでブラッシュアップされました。あと、現場にいた時に症例検討で「この患者さんはこういう病態でこういう問題があって、その問題に対してこう栄養ケアを行って、こう変わった」という論文に近い形でのまとめをさせていただいたこと。そういった症例の筋(すじ)を見ていくことが研究を進める上でもそうですが、色々な物事の考え方につながっていたので、若いうちに取り組んでおいて良かったです。
━━ 若い頃にしておけば良かったと思うことや今後の抱負はありますか?
- これは英語ですね。もう中学生の頃から苦手で。大学院では英語しか話せない授業が必修だったので、その日はすごく胃が痛くなるし、へこむし、大変な思いをしました。国際誌にパブリッシュされることも必須だったので、英語も研究も堪能な研究室の方々には本当に助けられました。また、海外で研究発表するときに、発表はできてもディスカッションやコミュニケーションをうまくできなかったのが辛かったです。なので、今後もできるだけ英語に触れる機会を作って、海外での研究発表にチャレンジしていきたいと考えています。
━━ 最後に、若手に期待することやメッセージをお願いします!
- 若手の実践者の方へ。見える専門家になってもらいたいです。栄養士の場合、厨房だけにいるのではなくて、空いた時間があれば厨房の外に出る。食に悩みを抱えているけれど誰にも相談できていない人は少なからずいると思います。栄養士がここにいるよっていう存在が見えることで、そのような人が食の悩みを聞ける機会が増えます。見える実践者になっていくことが、人の健康づくりにもつながると思います。若手の研究者の方へ。自分の経験から言えば、出会い。すごく助けられたので。出会いを大切にということ。あと、論文を書くことです。また、考えを持つことは大事ですが、信念というか、固い考えは持たなくても良いと思います。色んな人の考えを聞きながら、自分の考えが膨らんだり、変わったり、柔軟的にやれることも大切かなと思います。あとは、楽しく生活する、ユーモアを持って生活する!以上ですね。
実践から研究へ移られ、家庭との両立もなさってのご受賞、若手の会メンバー一同、憧れをもってインタビューさせていただきました! (串田修,佐藤愛)
髙泉佳苗 Kanae Takaizumi
【略歴】管理栄養士として病院に勤務後、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科博士後期課程に進学、2012年 修了。日本学術振興会特別研究員(DC1)、岩手県立大学盛岡短期大学部生活科学科 講師を経て、2015年より仙台青葉学院短期大学 講師、2019年より同准教授に就任。
継続が鍵
━━━ 奨励賞受賞おめでとうございます!受賞の喜びや感想をお話しいただけますか?
- まず、これまでの食生活リテラシーの研究はすべてウェブ調査のみだったので、調査のレベルとして奨励賞をいただいていいのだろうかという思いが大きかったです。それでも今回表彰いただき、とてもありがたく思います。それからキャリアパスにも関わるのですが、博士号取得後、主婦業に専念していた時期もあるんですね。子どもが生まれてからは生活第一のスタイルで仕事をしていて、空いている時間に少しずつ研究を継続してきました。その成果を認めていただけたことに恐縮でありながらも嬉しさを感じています。この賞には今のスタイルでも頑張って継続して研究をしていきなさいという激励も含まれているのではと思っています。
スポーツ・研究との出会い、導き
━━━ 病院の管理栄養士としてのご経験を教えていただけますか?
- 病気や食事で悩んでいる患者さんに栄養面からサポートできる栄養士になりたいと思い、大学を卒業してすぐに病院に就職しました。そこは、栄養サポートチーム(NST)を東北ではじめて立ち上げた病院でもあり、病棟に張り付いて患者さんと1対1で接する機会が多かったです。栄養サポートの一部として運動の取り組みがあって、新人栄養士がダンベル体操を行う。もともとスポーツはやっていましたが、そこで栄養と運動の関連性を強く感じました。それがきっかけで、病院にお願いして働きながら健康運動指導士の資格を取得しました。
━━ 病院の管理栄養士からスポーツ科学の研究室に進学された理由は?
- 病院では、栄養士として症例検討や、自身でデータを取得して発表することも求められ、研究の一歩手前のような経験もしました。その際に医師と自分の考察が違ったりして、自分のやっていることは正しいのか等モヤモヤがありました。きちんと研究方法を学びたいと思い、大学院に行こうと決意しました。病院をやめるつもりはなかったので、1年で修了できるところを探しました。そこで早稲田大学の健康づくりと運動に関する研究室を発見。1年間休ませてほしいと上司に頼んでスポーツ科学を学ぶことにしました。修了して現場に戻ったのですが、修士だけでは研究というものがよくつかめなくて・・・。もう少し研究したいという思いと、現場で栄養業務をするよりも研究を極めたいという気持ちの方が強くなったので、現場はやめて博士課程一本に絞りました。
━━ スポーツは本格的にされていたのですか?
- 小学校から高校までバレーボールを続けていて、県の代表で東北大会まで行きました。大学からは、オリエンテーリングという競技があってインカレを目指していました。オリエンテーリングは心技体という3つが大事だと言われていて、勉強になりましたね。あと、大学院生の時の研究室が地域のウォーキングサークルを運営している研究室だったので、住民の方々を集めて毎週ウォーキングをしていました。小さい頃からスポーツとは近い存在でした。
━━ 今の教育職についた理由は、やはり研究への思いですか?
- はい。現場でも研究はできるのですが、現場で仕事をする上での向上心がなくなってしまったことが一番大きいです。あとは、一人の栄養士として人々の健康づくりに携わりたいという思いがありますが、病院などの現場で自分一人が携われる患者さんの数には限りがあります。それよりも、これからの健康づくりを担うより多くの栄養士や管理栄養士を養成する道も間接的ではありますが、人々の健康づくりに貢献できるかな、という思いがあって教員を志しました。
━━ 今はどのような科目を担当しているのですか?
- ライフステージ栄養学実習、臨床栄養学実習、栄養教育論、栄養指導実習を担当しています。
━━ 先生が考える、行動変容を促す理想の栄養教育方法を教えてください!
- 対象者の行動変容を促す一番の方法は、そうあってほしいという願いもこめて個人栄養教育だと考えています。ただ、そのためには栄養士の行動科学についての知識やカウンセリング技術なども必要になるので、栄養士としての経験はもちろん、栄養士の養成での教育も大事だと思います。私が学生の頃は、行動科学という言葉を一度も学ばずに、学んだのかもしれませんが記憶に全然残らずに卒業したので、将来、栄養士になる学生には行動科学や行動療法についてしっかりと学んで卒業してほしいと考えています。しかし、個人栄養教育という1対1の形で栄養士が関われる場所や機会、対象は限られています。より多くの人の行動変容を促す方法の1つとして、「食情報をどう発信していくか」と「その食情報を受けとるスキル(食生活リテラシー)」について研究を進めています。
保健師の存在意義をしっかり伝えていきたい
━━━ 教員になろうと思った理由を教えてください
- もともと産業保健師として働いていて,現場のデータの分析はもちろん業務内でできるんですけど,論文を書くということは業務にはならないんですよね.論文を書いて世の中に発信していくということはある意味,趣味みたいな位置づけで行っていたのですが,それを業務としてできるといいなあというのが本音ではあったというのが1つあります.それと別の理由としては,保健師や研究者として培ってきた経験を,論文だけでなくて教育という形で還元していけたらいいなあというのがありまして,そうなったときにそれができる立場ってなんだろうとなると,大学教員なのかな?というような選択肢になって,ご縁もあり大学教員になりました.
━━━ 学生教育をする上で,力を入れていることはありますか?
- 力を入れたいと思っていることは,実践と研究のどちらにおいてもPDCAサイクルをきちんと回せるようになってほしいということです.私自身の経験でも,会社のデータ分析をして上司に返して,といった実践におけるステップと研究におけるステップは,どちらもPDCAサイクルを回していく上でほぼ同じことを行っているんです.例えば,現状を分析して,できる限り根拠のある介入をするためになるべく先行研究を読んだりして.そしてそれを実施したらきちんと評価をしなければいけないし.評価の視点においても,どういう質問項目を聞いて,比較群をどうするかといったことを考えていって,出てきた結果をどう考察するか,そして次はどうするのかといったそのプロセスって研究も実践もほぼ同じ.
- また,行政の保健師を対象とした研究で,保健師の能力で1番弱かった項目が,新規事業の必要性とか事業の評価を見せるスキルが低かったというのが明らかにされているので,そこができるようになるような保健師を増やせればいいなと思っています.そうすることで結果として保健師の意義も高まってくるでしょうし,「保健師って大事だよね」ということが世の中に伝わっていくといいなと思っています.医療職ではない人に保健師の話をしても,「保健師って何してるの?」ってよく聞かれるので,保健師の存在もしっかり伝わって,意義も伝わっていけばいいですね.自分自身が現場と研究をしてきたので,その強みを活かして教育に貢献したいと思っています.
若手へのメッセ-ジ
━━ 若いころにしておいた方がよいことはありますか?
- 自分の関心ある分野の一流の人に会いに行くのが良いかなと思います.特に若い人ほど質問しやすい立場だと思うんですよね.ある程度上になってくると「こんなこと知らないの?」って思われてしまいますが,学生や若手であれば「まあ知らなくてもしょうがないよね」となるでしょう.逆にそれが強みになると私は思っていて,それを武器にどんどん偉い先生方に「先生,私これ関心あるんですけど教えてください」とか,どんどん尋ねたら良いと思います.自分の研究だとか強みの部分を質問されたりすると私自身嬉しいので,おそらく他の先生方も自分の研究分野に関心を持っていることを知ると,嬉しいと思うんですよね.結局,私自身が素晴らしい先生方に引っ張り上げてもらっている感じで,今のところまで来られていると思っています.人の影響を受けるのであれば一流の影響を受けたほうが良いと思っているので,“朱に交われば赤くなる”の朱になる部分は一流の方がいいですよね.
チャンスをつかむ秘訣
━━ 人とのつながりを大切にされている先生ですが,たくさんのチャンスを掴むコツや秘訣はあるのでしょうか?
- 私,学生時代にひたすら旅行をしていて,色々な現地の人の家に泊めてもらったりとか,そういったことをしていたので,性格的に図太いかもしれません.一番はたぶん,積極的な姿勢を持ちながら,その先生が行っている研究とか関心が高いところを質問なり声を掛けていくということが大事なのではないかと思っています.あとはタイミング.例えば発表直後の先生に質問や名刺交換で多くの人が並んでしまったりするとほんの数分しか話せなかったりするので,私は懇親会をものすごく重要視しています.特に飲み会はおすすめですね.
━━インフォーマルな場も貴重なチャンスということですね!
- あとは,経営学の本で読んでいておもしろいなと思ったキーワードがあります.“transactive memory”という言葉で,組織のパフォーマンスを高める上で重要な要素で“誰が何を知っているかを知っておくこと”というのが重要なんだそうです.そして,そのtransactive memoryを高めるには,face to faceの関わりが重要というのを読んだときに,「あ,これ,自分のことと当てはまるな」と思いました.先生方とのネットワークを大切にしていくというのは重要なのかなと思います.別の本でも,“弱いつながりの強さ”という言葉があります.普段濃密な関わりだと比較的狭い世界だけど,ちょっと弱いつながりだけど離れている人って比較的また違う世界を持っていたりして一気に情報が広がったりするので,そういう弱いつながりを持っておくというのも重要と思います.
- 怖気づかないで一流の先生のところにどんどん尋ねて行ったらいいのではないかと私は思います.
金森先生から,健康教育への思い,若手へのメッセージをいただきました.人とのつながりを大切に,積極的な姿勢を持ちながら進んでいこうと感じた若手の会メンバーでした.(細川佳能,赤岩友紀)
金森 悟 Satoru Kanamori
【略歴】2005年看護師として順天堂医院に3年間勤務.2010年早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程修了.2010年順天堂大学看護学部 助教として3年間勤務.2013年保健師として伊藤忠テクノソリューションズ株式会社に6年間勤務.その間,2017年東京医科大学大学院公衆衛生学分野博士課程修了.2017年から東京医科大学公衆衛生学分野 客員研究員となり,2019年より東京女子医科大学看護学部 講師に就任.
人とのつながりから生まれた研究
━━━ 奨励賞受賞おめでとうございます!受賞の喜びを教えてください!
- もちろん非常に嬉しく思っています.奨励賞は第一回の受賞の先生方から見てきてはいましたが,ちょうど第一回が福田洋先生(現 順天堂大学医学部 先任准教授)でした.非常にお世話になっている先生が受賞されていて,あのような素晴らしい先生が受賞するすごい賞なんだなと思っていました.その後,甲斐裕子先生(現 公益財団法人 明治安田厚生事業団 体力医学研究所 主任研究員)も受賞されていて,自分の中でロールモデルとする先生方が受賞されるような賞に自分が選ばれてもいいのかな…という思いもありました.10年前の自分が見たときに受賞に値するのかなど色々思うところはあります.しかし,そのような先生方が受賞されてきた賞に自分が選ばれたことは,非常に嬉しいことだなと思っています.
多くの気付きを与えてくれた人との出会い
━━━ 現在の研究,分野に興味をもったきっかけを教えてください.
- 昔からスポーツが好きだったので,最初は早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に所属していたこともあり,サッカーの監督をやってみたいなと思っていました.サッカー部の大先輩である岡田武史元監督が講演に来てくださったこともあり,あんな風になれたらいいなと憧れていました.海外旅行も好きで,海外に行って色々な人と触れ合うときにも,スポーツを通して現地の人達と知り合えるのも楽しかったです.そんなときに自分自身が入院したことがスポーツ分野から健康分野へ転換するきっかけになりました.自分の入院というより入院生活の中で出会った一人の高齢男性の存在が大きかったです.消灯後に二人で話す機会も多く,私が退院した後もお見舞いに行っていました.その方は段々と体調が悪くなってしまったのですが,私が顔を出しに行くことでこの方の生きがいに何か貢献できないかと考えるようになりました.ご家族や看護師さんの理解もあり最期までその男性に寄り添わせてもらった経験から,終末期の段階での働きかけについて考えるようになりました.
━━ 学生時代から多彩なご経験をされていたのですね.
- 実際に現場に出て,終末期の人のケアを行っていました.ボランティアも色々なことをして,そこで経験を積むうちに最期だけのアプローチだけではなく,もう少し前の段階でアプローチができたらより良いのではないかと感じるようになりました.そこで,以前から好きだったスポーツを活かし,健康づくりやその先にあるQOLまで働きかけられるような取り組みができたら良いなと考えたのが,研究以前の想いとしてありました.
━━ 健康スポーツ室での新たな気付き
- その想いを実現するために順天堂医院の健康スポーツ室で看護師を始めました.そこでは,行動変容の支援を中心に業務を行っていました。印象的だった出会いとしては,夫婦で利用されている方がいて,奥さんは仲間とわいわい運動を楽しみ,かたや旦那さんは一人で寂しそうに運動している…この違いはなんだろうと思って見ていたことです.そこからは,行動変容など個人へのアプローチについて勉強しながら実践していました.しかし,個人へのアプローチだけでは限界がありそうだということに気付き,環境や集団へのアプローチを学ぶために大学院へ進学しました.そのようなプロセスから,一人の身体活動量を増やすことにも関心はありましたが,そこだけでは何か足りない!と,どこか引っかかる部分がありました.そこからまたたくさん模索して,自分が関心あるのは運動を誰かと一緒にやることなのだとやっと辿り着くことができました.
個人から集団へのアプローチへ
━━ どのような経緯で産業保健師として現場でご活動されるようになったのですか?
- 入社する前は,順天堂大学で看護の教員をしていました.これまで,病院での個人へのアプローチは現場経験としてあったけど,集団を対象にすることはできていなかったので,そういった経験を積めたらいいなという思いを持っていました.あと,さんぽ会という産業保健の勉強会に行っていて,学術的には何となく理解できているけど,実際それを行ってみたらどうなんだろう…という興味が湧いてきたこともあって産業保健の道に進みました.
━━ 実際に現場ではどのようなことをされていたのですか?
- 現場で取り組んだこととして特に多かったのは,健康診断後の対応でした.健診で所見が見られた人をまず抽出し,有所見者に面談を設定して,その結果を本人の同意をとって上司にフィードバックするといった仕事です.それ以外に比較的多かったのが,メンタルヘルスに関する相談を受けて,必要に応じて上司,人事,産業医らと相談したり…そのあたりの調整をしながらその後の対応をするというところですかね.
- 私が行ったことの1つとして,情報配信は定期的にはされていなかったので,やりましょう!といって月1回健康情報の配信をするようにしました.いきなり全員に配信は難しかったので,依頼のあったある特定の部署だけ行っていました.そうしたら別の部署からも依頼がきて,さらに自分が所属する人事部でも流すようになったんです.上の人から「そんなちょこちょこやってるなら全員に配信しなさい」と言われて,そこから全社に広がっていったという経緯がありました.内容については,健康の押しつけはしたくないという思いと,産業保健自体企業の中で働くときに経営の視点を入れることも重要視されるので,運動しましょう…食事はバランスよく…だけではなく経営の視点も必ず入れるようにしていたところが,ある程度評価してもらえたのかなと思います.
- IT企業だったのでパソコン業務も多く,肩凝りや腰痛対策のニーズが高かったため,“カラダのゆがみ測定会”というものも行いました.これはネーミングもものすごくこだわって,健康に関心がない人にも来てほしかったので,なんか面白そう…!と感じさせるように工夫しました.案内のメールを配信して30分で募集枠が埋まってしまうほどの人気でした.10分程で測定して運動指導を受けて,就業時間内に1人ずつ個別に対応するという形で進めたら,社員には好評で,予防・改善効果もある程度見られたため,私が辞めるまでの6年間は毎年取り組ませてもらいました.
インタビュー後編は,金森先生が教員になろうと思ったきっかけや若手へのメッセージをお届けします.(細川佳能,赤岩友紀)
臨床は面白い!
━━━ 大学で働こうと思ったことはありませんか?
- 非常勤講師をしたり、研究員をしたり、いろいろなところに行きます。学生と話したりすると刺激にはなるけれど、臨床医をやめようと思ったことはありません。
- それは、国際保健でも、日本歯科医師会の活動でも、寿命の研究でも、行動科学の研究でも、自分の背骨がないといけないと思うからです。口腔保健の分野の中でも私は臨床医なので、患者さんの口の中を診ることを通して、物事を把握しています。その経験がなくて疫学調査や政策のことをやっていても、あまり現実的に意味のある研究や取り組みにはならないのではないかと思います。もちろん誰にでも言えることではないかもしれませんが、私の場合、振り返ってよかったのは患者さんの診療をしていることかなぁと。
- 臨床は厳しいこともありますが、楽しいですよ。患者さんと会うことも、症状を見ることも、必要があって始めた訪問診療もね。
とにかく前に進んでほしい
━━━ 若いころにしておいてよかったことはありますか?
- 一つは、読書の習慣。それも、いわゆる乱読です。海外のものも含め、なんでもかんでも読んでいました。あとは、尊敬できる先輩との出会い。先輩は、たまにはいいことをいいますからね(笑)。たとえば、福岡予防歯科研究会の先輩に、「辛子明太を食べた人にしか、あの辛さはわからない」と言われたのを今でも覚えています。やってみなければわからない、理屈よりも行動することを大事にする人達でした。
━━ 若手へのメッセージをお願いします!
- もしもあの時にあの人たちに会わなかったら、こういうことをしていなかったら…と思うことはたくさんあります。もしも九州歯科大学でなくて医学部に行っていたら、将来は全く違って、当時興味があった精神医学の分野に進んでいたと思います。また、福岡予防歯科研究会に行って予防歯科の方たちに出会っていなかったらネパールにも行かなかっただろうし、国際保健に興味を持つことも、英語を話すこともなかったかもしれません。それからPhDコースに行かなかったら、またまったく違ったのではないかなと。そういうことの積み重ねで、できることが増えていったかなと思います。
- 僕がやっていることはたくさんあるように見えるけれど、どれもバラバラではありません。日本歯科医師会地域保健委員会の仕事も、ネパールの歯科保健も、行動科学・ヘルスプロモーション・公衆衛生ということで共通しています。たとえば、ネパールでは一生で一回も歯科治療を受けていない人たちもいます。その人たちの口の中を見ると、一本ずつの歯をすりへるまで使い切る感じがあります。その中で食べられなくなる人もいます。歯科治療を受けない人は、食べにくくなったまま我慢しなければなりません。そのようなことを、健康教育・ヘルスプロモーションの観点、国際保健医療学会や健康教育学会の人との出会いや、臨床をやっている経験から考える事が出来たし、ネパールの経験はいろいろなところに活かされています。これまでの経験すべてが一貫してつながっているから、あんまり苦労には感じません。そしてそれは、今の若い人たちも同じようになっていくんじゃないかなと思います。
- 僕が研究所を始めたときには、コロキウムやセミナーに参加してくれる人たちは先輩や同年代が多かったのですが、今はだんだん後輩たちや若手が増えています。今の若手研究者は早い時期から発表したり論文を書いたりと、研究能力が昔の自分たちとは違うと感じます。20代から研究を始めた若手の彼らも、今や准教授や教授になっています。僕は35歳くらいから研究を始めたから、僕の40~50代で見えた世界と、今の若い人たちがその年代で見える世界は全然違うと思うし、どこまで伸びるのかわからない。だから、どこまで伸びるのかを見るのが楽しみです。
━━ 若手に期待することは何ですか?
- 今の若手に期待することは、期待というよりも…、できるだけ前に進んでほしい。もっともっと前に進んでほしいですね。
専門領域を超えた共有を目指して
━━ 学術大会に向けた想いを教えてください!
- 今度の学術大会の趣旨はいくつかあります。
- 一つは健康格差。健康教育は個人の場面、集団の場面、地域の場面があるけれども、Inverse care law のように、健康状態の良い人たちには健康教育は届くけど、悪い人には届かない。たとえば健診や健康教育、歯科医療は健康状態の良い人には届くけど、そうでない人にはプログラムが届きません。そういった問題を解決しようとするのが本来のヘルスプロモーション、別の言い方で言えば、健康格差を減らすということになります。そういった意味では、厚生労働省や日本歯科医師会の政策も重要です。そこで、健康格差の是正と政策についての議論を深めたいと思っています。また、個人の健康教育の限界についての共通認識を持ちたいというのもあります。個人の健康教育でやっていることの限界を感じている社会疫学の人たちは、長期的な効果の観点から健康教育自体に疑問を感じています。近藤克則先生に基調講演をお願いし、一度健康教育の限界と、健康格差の是正にどう広げるかというのを議論して行きたいと思います。
- もう一つは健康に関する多職種連携と高齢者保健の問題。元気な高齢者が増えて、平均寿命が延びました。平均寿命が70歳の30年前と80歳を超える現在では高齢者の健康教育の在り方はずいぶん違うはずです。そこで、今の高齢者保健について改めて考えたいと思っています。また、健康教育学会の人たちは、健康に関する専門職という共通点があって、対象者本人の健康行動の改善をサポートする集団だと思います。様々な専門家が集まった組織だけど、専門化が進むにつれて、それぞれの分野で研究デザインをコンパクト・具体的にしないとアウトカムがはっきりしません。だけど、お互いに健康の専門家であるから、やろうとしているプロセスやアウトカムには共有できる部分があるのではないかと考えています。たとえば口腔保健と栄養は、食べることで一致しているので共有できるかもしれません。
- 最初の特別講演で、近藤克則先生に健康教育の限界を述べてもらいます。一日目のシンポジウムでは、健康日本21の評価について様々な専門家に登場してもらい、どう共有できるかという議論を深めたいと思っています。二日目のシンポジウムでは「健康施策を考える」をテーマとして、自分たちが持っているアウトカムをやっている途中で共有できるか、高齢者の健康教育と、口腔と栄養のコラボレーションを考える場所を作りたいです。学術大会の1日半を通して、これらの議論を深められればと思います。その議論が学会誌の特集で反映され、さらに議論が深まることを期待しています。
深井先生から若手へのメッセージと学術大会への思いを伺いました!深井先生が学会長を務められる学術大会に是非ご参加ください!(田中、町田)
深井 穫博 Kakuhiro Fukai
【略歴】1983年福岡県立九州歯科大学卒業。1985年 深井歯科医院開業。ネパールにおける歯科保健医療協力などの活動を経て、1997年 東京歯科大学にて博士(歯学)の学位を受領。2001年 深井保健科学研究所を開設し、所長に就任。その後、公益社団法人日本歯科医師会常務理事(地域保健・産業保健)、公益財団法人8020推進財団専務理事等を経て、FDI Oral Health for Ageing Population Task Team, Chair 、神奈川歯科大学 客員教授(口腔科学講座社会歯科学分野)など、多くの活動に従事している。
臨床と公衆衛生の両立を目指して
━━━ 歯科医師を志したきっかけを教えてください!
- 高校3年生の頃、なるべく人間に関係する仕事がしたいと思って、医学部か歯学部がよいかなと思っていました。私立の大学はお金がかかりそうだったので国立か公立かという感じで探していて、公立の大学で唯一歯学部があった九州歯科大学に入学しました。入学してまず驚いたのは、北九州の寒さです。ずっと関東に住んでいたから、九州ってあったかいのかなと思っていたら、北九州は寒かった(笑)。
- 入学して、最初の目標は、トーマス・マンのトニオ・クレエゲルという小説をドイツ語で読むこと。教養課程にドイツ語があると知って、当時好きだったこの小説をドイツ語で読めるようになりたいと思っていました。どちらかというと体育会系の大学だったので、大学の近くの長屋に下宿しているとクラブの勧誘が来ます。高校生の頃はテニスをやっていたからクラブに入るのもいいかなあとも思ったんだけど、大学から少し離れた場所に下宿していたら勧誘に来ませんでした。そのおかげで、ドイツ語の勉強や読書をする時間をしっかり確保できて、1年くらいすると読めるどころか、ほぼ丸暗記していました。
- それで、次にどうしようかなと思っていて。そんな時に出会ったのが福岡予防歯科研究会(現:NPO法人ウェルビーイング)でした。その当時、大学を卒業したばかりの先輩のグループで、何人か6年生もいました。その人たちが目指す究極の歯科医療は、むし歯や歯周病がなくなって歯科医がいなくてもいい世界になることでした。その理念を聞いて、なるほどなと思いました。当時、あんまり真面目に勉強ばかりしてもなと思っていたのですが、その人たちはよく飲むし、音楽なんかもやっていて、楽しい人たちでした。週に一回福岡でセミナーをやっていて、大学が終わってから毎週木曜日に電車で福岡に行きました。この先輩方からは、歯科医療を治療から予防へと転換しようとする強い意志を感じることができましたし、臨床と公衆衛生を両立しようとする考え方には強い影響を受けました。セミナーの後は朝まで中洲で飲んで、金曜日はそのまま大学に行っていました(笑)。
開業、そして研究の道へ
━━━ 卒業後はどうされたのですか?
- 歯学部を卒業すると多くは、大学に残って研究者になるか臨床に行くかに分かれます。研究者になろうとは思わなかったから、大学卒業後は福岡で勤務医をしていました。福岡予防歯科研究会の活動も続けていて、幼稚園や小学校でのむし歯予防のためのフッ化物洗口の普及活動などを行っていました。
- それから、結婚して出身地の埼玉県で歯科を開業しました。学校保健とか地域保健とか、どこから関わっていいかわからなかったけど、そういうこともできるようになりたいと思っていました。開業して最初の5年間くらいは、診療所を軌道に乗せることに集中していました。この頃は、臨床と地域保健、あとは文学なんかを続けていければいいかなと思っていました。
- そんな時に、自分の書いた文章を読んでいて、ふと気づいたことがあります。エッセイや日記は書ける。しかし、科学的な文章・論理的な文章ではないということに気がつきました。それで、なんでかなと思って。いろいろな人の文章を読んでみて、これはトレーニングが必要なのだなとわかりました。
- そこで、東京歯科大学口腔衛生学講座の専攻生になり、5年間診療後に大学に通いました。研究テーマは行動科学に関するものでした。学位論文では、「口腔保健の認知度と歯科医療の受容度」について保健行動モデルを作り、質問紙調査による仮説モデルの検証を行いました。当時この研究分野では、子どもや高齢者の研究はある程度進んでいたけど、成人の研究は少なかったんです。研究者が少ないから海外に行ってもすぐに友達がでました。
━━ なぜ、行動科学をテーマに選んだのですか?
- 当時、診察をしていて不思議だったことがあります。同じように説明しても、ある人の口の中はよくなって、ある人の口の中はよくならない。あるいは定期健診について伝えても、ある人は定期的に来院しますが、ある人は来ない。なぜだろうと。それで、これは研究になりますかと主任教授に聞きました。ちょうど研究室でも行動科学の研究を始めたころでした。そして、このテーマを選んだのが、行動科学とか健康教育・ヘルスプロモショーンの研究に触れ合うきっかけでした。
多くの活動を経験して
━━ 先生の経歴を見ると、たくさんの活動をされていますよね。*
- 専攻生になる少し前に、1990年ネパールでの歯科医療協力活動に初めて参加しました。最初は歯科治療をしていました。しかし、それだけでは解決しないので、予防歯科や健康教育、学校保健の活動も始めました。これがきっかけで、国際保健にも携わるようになりました。ネパールでの活動内容について学会報告や論文報告をするようになり、年から年間は日本の歯科口腔保健のである歯科保健医療国際協議会の会長も務めました。
- それから2004年くらいから、日本歯科医師会の仕事も始まりました。その当時、口腔保健の分野は成人歯科が課題となっていて、それに対応するための行動科学や健康教育の専門家として声がかかりました。行動科学に基づく新しい成人歯科健診プログラムの開発を行いました。その後、地域保健委員会委員長になり、それから理事・常務理事を務めました。
- そうこうしていると、厚生労働科学研究班で、口腔と全身の健康との関連の研究が始まりました。その当時、口腔の状態と寿命との関連を調べている研究はあまりありませんでした。それで、厚労省から話があり、宮古島でコホート研究を始めて、今年で28年目の追跡となっています。最初はレトロスペクティブ、その後はプロスペクティブなコホート調査です。
- 日本歯科医師会の仕事がひと段落したころ、WHOの人たちとの交流や国際歯科連盟(FDI)の仕事をすることになりました。高齢者の口腔保健については世界全体の課題となっています。年に日本歯科医師会の主催で高齢社会の歯科をどうするかという世界会議を行って、その議論をで引き継ぐことになりました。そこで、高齢者口腔保健タスクチームの委員長を務めることになりました。
━━ 研究所について教えてください!
- 診療所の所属で研究を続けてもよかったのですが、研究者仲間もいるので、2001年に深井保健科学研究所を設立しました。研究所の主なタスクは2つあります。一つ目は、セミナーとコロキウムの開催。毎月研究所でセミナーを行い、年に一回都内でコロキウムを開催しています。二つ目は、年に2回の学術誌「ヘルスケア・ヘルスサイエンス」の発行です。
*日本国際保健医療学会編.国際保健医療のキャリアナビ.南山堂:東京;2016.で詳しく紹介されています。
インタビュー後編では、若手へのメッセージや学術大会へ向けた想いをお届けします!(田中、町田)
研究と教育にむけた信念
━━━研究活動の支えになっている信念は何ですか?本当に1番やりたい事は何ですか?
- 大学で教壇に立つために研究を始めました。私は授業が好きなんです。授業が好きと思えるようになったきっかけは,自分が関わった学生達の行動変容にありました。無意識のうちに行動変容技法や行動科学的なことを実践していたのかもしれないですが,「こんなことを言ったらこういう風になってくれた」といった体験—人と人が関わることでより良くなっていくこと—にすごく快感や生きがいを感じることができました。病院の管理栄養士をした経験から予防の重要性に気付かされるなど,学びは多かったけれども,“やっぱり教えたい”そこに揺るぎない信念があります。
- もう1つは,負けず嫌いのなにくそ魂です(笑)。短大卒という経歴に対して,ネガティブな評価をされた経験があります。助手としてのサポート力は誰にも負けないぐらい,時間もかけたし自分なりに努力もしてきたつもりですが,大学の教員になるには,業績が必要,学位が必要とあって…。「だったら取ってやる!文句は言わせない!」そういった負けず嫌いの性格が,私を研究に向かわせました。博士の学位も,そうした負けん気が生んだ賜物です。劣等感だけでは人は動かないけれども,劣等感を糧にして頑張ってこられたという意味では,信念ともいえるかもしれません。
- ただ,いざ研究をしてみたら研究そのものがやっぱり面白かったです。病院などの現場で思っていた予防の重要性に役立つ研究ができるということで,夢中になりました。さらに良かったことは,研究したこと,研究を通して得たスキルが授業にそのまま活かせるということです。研究できていなかったときの授業よりも,今の授業の方が,自分で納得しながら教えることができています。というよりもむしろ,自分の授業に還元できる研究をやりたいという思いがすごくあります。
━━━研究者の道に進むことを迷われたことはないのでしょうか?
- 助手の頃も,博士課程に進み食生態学を学び始めて間もない頃も,ブレブレだったと思います。栄養指導を専門的に学びたかったけれども,助手時代は調理実習や給食経営管理実習などの担当が多かったので,もどかしさも感じていました。何が自分の強みなのか,専門なのか,どこに向かっていけばいいのかと迷いながら食生態学に進んだので,当初は悩みました。「ここがあってたのか」と自信がなくなったりもしていましたが,当時の悩みを(指導教員である)武見ゆかり先生に打ち明けたときに,していただいたお話に救われました
- —「ストレートに大学院に進学した子の方が確かに早く学び,得ているものは多い。でも,あなたはあなた。全てを強みにしていけばいい。調理ができて栄養教育ができる人ってそうそういないでしょ。あなたはそれができるのよ。すごいじゃない。」 —
- それ以来,全ての経験が無駄にはならないと信じて,「調理もできて,栄養指導・栄養教育もできる」教員であることを自分の強みやオリジナリティとして短大教育に勤しんでいます。
- 思い悩んだ当時の経験は,学生指導をはじめ,いろいろなことに活かされています。私はたまたま最初に勤めた助手の仕事がすごく自分には合っていたと思うし,精を出して仕事に打ち込むことができていました。それ故に当時は,なかなか仕事が手につかない後輩を見て,「もっと頑張りなさい」と思うこともありました。でも,私も自分自身の人生における“迷い”を経験して,人それぞれ悩みを抱えながら人生を歩んでいる時期があるということを理解しなければならないし,学生指導に当たってもそれを念頭に教育すべきであることを学びました。学生達の中には,将来の進路や就職について全く思いつかない人もいれば,とにかく管理栄養士になりたいと訴えてくる人もいます。私は,自分が経験した迷いからも,それを受け入れつつ,1年後,5年後,10年後の自分を思い描けるように学生を指導できればいいなと思っています。
全ての経験が活きる
━━ 勉強や研究に励んでいる若手に向けてのメッセージをお願いします。
- やっぱり若いうちに苦労をたくさんして,自分の足をつかって,積極的に経験を多くすることだと思います。すべての経験が絶対に無駄にはならないと思うので。私は遠回りをして,結構年齢を重ねてから研究の世界に足を踏み入れたので,正直体力的にきついことも多かったですし,凝り固まった考え方や価値観を崩すことにも時間がかかりました。皆さんは若いうちから,興味をもったことについて突き詰めようと研究されているのはすごく素敵だと思います。いろいろあるかもしれないけれども,大きな波には敢えて飛び込む気持ちで,沢山苦労をされた方が良いと思います。そして,これからまだまだ長い人生ですから,迷うこともあると思いますが,なりたい姿っていうものを常にイメージしていると良いと思います。栄養指導でもそうなのですが,適切なプロセスは1つではなく,この道が正解というのはありません。とりあえず1つやっておけばいいやっていうよりも,いただいたチャンスがあれば貪欲にやって,いろいろな道を知っておかれた方が良いと思います。
- それから,私はずっと,研究や仕事,プライベートでも「素敵だな」って思う人には自分から積極的に関わるようにしています。自分が素敵だと思った人の周りは,また素敵な人がいるんですよ。そんな人達のそばにいることで,得るものが多いと思います。明確にこの人のここが素敵だから真似しようって思うこともあるし,その人たちと会話をしている,時間を共有していると,自然とそういう価値観が生まれてくることもありますよね。ですから若いうちから,ご著名な先生でも「素敵だな」と思ったら,躊躇せずに思い切ってどんどん近づいて行って吸収をすることをおすすめします。この学会はそれを許してくれます。そうした機会を得るためにも,学術大会やセミナー,若手の会のイベントなどには積極的に参加されると良いと思います。そして,将来的には自分が「素敵だな」と思ってもらえる側の研究者や教員となること,近づいてきてくれた人にはどんどん発信していける人になっていくっていうのが理想かなと思いますよね。
小澤先生からいただいたメッセージを胸に「人とのつながりを大切に,何事にも積極的に,そして前向きに」,進んでいきたいと感じた若手の会メンバーでした。(小岩井馨,中村悟子,喜屋武享)
小澤 啓子 Keiko Ozawa
2014年 女子栄養大学大学院栄養学研究科博士後期課程修了,2015年 新渡戸文化短期大学生活学科食物栄養専攻准教授,2016年 女子栄養大学短期大学部食物栄養学科 専任講師に就任
きっかけは,憧れ
━━ 奨励賞受賞おめでとうございます!受賞されたご感想を教えてください!
- ありがとうございます!嬉しいという気持ちが1番です。最初に赤松理恵先生(現 お茶の水女子大学大学院 教授)に推薦のお話をいただいた時には,私などが・・!!という思いもあったのですが,せっかくいただいたお言葉なので,チャレンジしてみたいなと思いました。いろいろな方にご指導をいただいたり,支えていただいて,今があります。論文という成果物だけでなく,こういった形でも評価していただけたんですよ,と感謝を示せるとも思いました。実際に受賞させていただいて本当によかったです。
━━ 食生態学という分野を選ばれたきっかけを教えてください!
- 食事バランスガイドが策定された当初,その策定に関わられた武見ゆかり先生(現 女子栄養大学大学院 教授)のご講演を拝聴したんです。さらっとかっこよく話されて,その姿とその話術・・・,全てに魅了されてしまって,”あぁこんな先生もいるんだ”と思ったのが1番始めのきっかけでした。数年後,働きながら大学院修士課程でいろいろと勉強し始めていたときに,自分の興味関心のある文献を検索すると,足立己幸先生(現 NPO法人食生態学実践フォーラム理事長),武見ゆかり先生,食生態学研究室の先輩方の論文が必ずヒットしました。それで,ここに行けば研究したいことができるんじゃないかなと思うようになりました。また,健康教育学会の巻頭言が,その先生方のいろいろな思いなどが書かれているので好きで拝読するのですが,武見先生が書かれていた時に,全部すごく納得ができて,それで武見ゆかり先生のところで学びたいと思うようになりました。
大学教員への道を選んだ
━━ 先生が教師になろうと思ったきっかけを教えてください!
- 短大を卒業して本当は食品企業の研究補助員になるはずだったのですが,栄養指導関係の先生に助手がほしいから残ってくれと言われたんです。大好きな母校,先生のもとで仕事ができるなんて幸せだと思い,内定を取り消して助手になりました。短大の2年間で学生達がものすごく成長していく様子を見て,そこに関われていることにとてもやりがいを感じました。ただ,仕事をしていく中で,図々しくも「私だったら,こんな授業をしてみたい」とか,「もっと上手に教えられるかも」と思うようになっていったんです。先生方と学生達の橋渡し的立場ではなく,自分の言葉で,思いで学生達と関わりたいと思うようになっていきました。それが教員になろうと思ったきっかけです。
━━ 先生という立場になられて,物事の見方は変わりましたか?
- 助手をしていたときに,尊敬する先輩が「先生ばかり見るんじゃなくて,先生の作業とか指示を見ている学生を見なさいね。教えている側と教えられている側,両方を見て,ここの関係をスムーズにするのが助手であり,先生のサポートにつながるのだから常にどちらも見る目を持ってなさい」って言ってくださったんです。助手の仕事や非常勤講師として講義もしてきたので,そういう意味では急に変わったというわけではないのですが,専任教員になった今も,常に多方面から物事を見るようにしています。
最新情報を発信し続けるために
━━ 研究を継続していくモチベーションの維持の仕方を教えてください!
- やっぱり,教育と実践は本当に両方大事で,自分も実践していないと,生きた授業じゃないですけど,学生にリアルな話ができないじゃないですか。きちんと先行研究を整理して,世界中にはこんな研究をしている人がいるよっていう話ももちろん大切ですが,ライブ的な自分が行ってきた話っていうのもすごく大事だと思っています。実際にそういう話をしてくださる先生達の授業は得るものが多いので,自分もそうありたいって思っています。専任教員になってからは,なかなか実践現場で研究するといったことは難しい面もあるのですが,学内で授業ばかりに集中していたら,授業が腐っちゃう気がするので,自分も常に何かしらやっていたい…っていうのはすごく気にしてはいます。ただ,1人ではできないので,こういった学会や,研究室の仲間と一緒に,情報交換をしたり,レビューを進めたりしています。仲間も頑張っていると,刺激を受けて,モチベーションがあがりますよね。また,お互いの研究成果を授業で紹介したり,というのも良い刺激になっていると思います。
━━ 人とのつながりが大切ということでしょうか。
- 人とのつながりはとっても大切だと思いますよ。私は今回システマティックレビューをやらせていただいたこともあり奨励賞を頂きましたが,レビューも絶対1人ではできません。1本の論文を決めた採択基準に基づき,複数人で〇にするか×にするか決める際に,けっこう意見が割れるんですよね。大学院入学当初は,批判的意見や自分と違う意見を言われた時に,自分を否定された気分になったりしたんですけど,今は1つのものに向かってお互いが意見を言い合うことってすごく素敵なことだし,必要なことだと思っています。このことは食生態学研究室で学び得たことだと思います。意見を言ってくれたということは,自分が発信したことを真面目に聴いてくれた,もっと良くしようと思ってくれたということですよね。こうしたお互いの批判的意見を受け入れられる人とのつながりができているか,ということはとても大切だと思います。ですから,学生達には若いうちから批判的な意見を発言できる,受け入れられるようになってほしいと思って授業やゼミを展開するようにしています。いただいた意見は一度受け入れる。よく咀嚼して使うものは使えばいいし,そうでないものがあってもいい。こういった力は早いうちに身につけておいた方が良いと考えています。
インタビュー後編は,小澤先生が研究を進める上で大切にされている信念や若手へのメッセージをお届けします!(小岩井馨,中村悟子,喜屋武享)
若手には経験的・学問的学びを通して大きく成長してほしい!
━ 若手のうちから取り組んでおいた方がよいと思うことを教えてください!
- 院生の頃から、研究室などのプロジェクト研究の一端を担うことは貴重です。プロジェクトに直に関わることで、研究の進め方を経験的に学ぶことができます。私が院生の時にも、行動の観察や評価研究など、新しい研究方法について学ぶことができました。また、喫煙防止教育の研究班で喫煙に関する文献を報告していたので、文献の読み方や整理の仕方を学ぶことができました。英語論文は、内容が広く質の高いものが多いですから、若手のうちから接する機会を多く持ってほしいと思います。
- また、若手のうちは論文を英文誌へ投稿することも貴重な経験です。私は昔、評価の高い学会誌へ無謀にも投稿し、辛辣なコメントとともにリジェクトされたことがありますが、それも今となってはいい思い出です(笑)。その後,別の学会誌に掲載していただいたのも良い経験でしたが。 経験はたくさんさせていただいたのですが、統計学や英語などはきちんと学んでおけばよかったと思います。特に英語に関しては、国際学会で発表する度にもっと勉強しておけばよかったと思いますね(笑)。英語でコミュニケーションできることは貴重だし、素晴らしいことだと思います。日本には健康教育に関する素晴らしい取組や情報がたくさんあり、海外の研究者は日本のそのような状況を聞きたい模様ですが、それに応えられないことはとても歯がゆいですね。
- 研究における連携も大切です。一人で研究をしているとわからないことが出てきます。そんな時には詳しい専門家に聞いて学ぶようにしています。兵庫教育大学には様々な分野の専門家がいるので、その点はとても助かっています。健康に関する様々な情報は玉石混淆の状態なので、その中から的確な情報を探すというのは苦労しますね。人を頼るというのは決して悪いことではありません。一人でしっかり情報を吟味して取捨選択することも大事ですが、効率的に仕事を進めていくためにも、お互いにわからないことは教え合い「学び合う」姿勢というものが大事だと思っています。
― 若手研究者に期待することを教えてください!
- 若手研究者は吸収力が高く、コミュニケーション能力やネットワークを構築する力も高い人が多い印象です。また、研究に必要なスタミナも兼ね備えています。ですので、いきなり質の高い論文を書こうと肩ひじ張らずに、どんどん論文を投稿して、社会へ情報発信をするようになってほしいですね。投稿前には吟味が必要ですが,慎重になりすぎず,ある程度論文をまとめられたら査読者に投げてみるくらいのつもりでもよいかもしれません。その中にはリジェクトされてしまうものもあるでしょうが、それは決して恥ではありません。精神的には辛いんですけどね(笑)。しかし、自分が納得して投稿したものなら、査読の厳しいコメントにも納得しやすいのではないかと思います。また、健康教育領域では研究論文にしやすいデータがたくさん存在しています。頑張ってください!
健康教育・ヘルスプロモーションでどこまでできるのか
― 学術大会へ向けた想いを教えてください!
- 私がなぜ評価研究に取り組んできたのかというと、「健康教育で一体何ができるのだろう?とか、どこまでできるのだろう?ということがいまいちわからない」という思いから、それを確かめてみたいと思ったからです。そこで、今回の学術大会では、健康教育・ヘルスプロモーションでどこまでできるのかということをテーマにしました。 特に評価を通して見えるものがあるのではないかということで、シンポジウムⅠは「健康教育,ヘルスプロモーションの評価から得られること」というテーマにしました。特別講演では、東京大学の近藤尚己先生に健康格差、社会疫学の視点から健康教育に何ができるのかということをご講演いただきます。また教育講演では、京都大学の阿部修士先生から意思決定についてご講演いただきます。阿部先生はスローな意思決定がファストな意思決定をどの程度支配できるのかということについても研究されており、それについてもご講演いただく予定です。また、シンポジウムⅡでは、がん患者サバイバーシップへの支援について取り上げます。学術大会の内容は,自分たちが聞かせていたただきたいことを反映しておりますが、企画は新しい動向等も踏まえていますので、是非ご参加ください!
西岡先生から若手への応援メッセージと学術大会への思いを伺いました!西岡先生が学会長を務められる兵庫大会に是非ご参加ください。(町田、根本)
西岡 伸紀 Nobuki Nishioka
1984年 東京大学大学院教育学研究科修士課程修了、1987年 同研究科博士課程単位修得満期退学.1987年から新潟大学教育学部に勤務.助手、講師を経て1989年助教授に就任.1999年から兵庫教育大学に勤務.現在同大学大学院学校教育研究科教授.
健康教育ってすばらしい!
━ 健康教育を志したきっかけを教えてください!
- 中学生の頃から健康や環境に興味がありました。環境に関心を持ったのは、私が愛媛県の出身で、当時、瀬戸内海での公害問題が身近にあったことによると思います。一方で、健康と環境はセットのようなもので、人の健康を扱う医学にも関心がありました。
その気持ちを持ったまま、高校三年生になりました。近所に農学部に行っている高校の先輩がいて、進学について相談に行ったら、農学部でも環境のことは出来るよって言われて。その日のうちに、受験するなら宿はどこにするみたいな話になりました(笑)。悩んでいたんだけど、強く誘われた形で農学部への進学を決めました。
それで東大農学部に入学して、海洋生物学の研究室に入りました。水の環境について勉強したかったのですが、実際に入ってみると、予想と違っていました。その研究室は基礎研究重視の教室で、環境問題を扱う応用的な研究には否定的でした。それでどうしようかなと考えまして。健康に関わるために医学部に入り直すことも考えましたが、親から「また何年も・・・勘弁してくれ」と言われまして(笑)。最終的に、当時、高石昌弘先生が教授でいらした教育学部の健康教育研究室の研究生になりました。その翌年、大学院に入学しました。
当時の自分にとって、健康教育ってすごく響きが良かったです。今でもそうですが(笑)。友達にも「流行だね」なんて言われて。「流行は違うだろう」と思いましたが・・・。「健康について教育できる」という考え方がすばらしい。とても価値があることだと思いました。
研究する面白さを知った大学院生時代
― 大学院生時代のことを教えてください!
- 高石先生が担当されていた研究の一つに喫煙防止のプロジェクトがありました。その一環として、助手の川畑先生、大学院生が一緒に、喫煙の文献のレビューをしました。喫煙の健康影響、関連要因、防止教育などの内容について、文献を分担して報告し、ディスカッションしました。
子どもの喫煙防止教育の実践にも取り組みました。海外での防止教育を参考に教育プログラムを作って、その効果を見たわけです。まずは高校生を対象にしましたが、当時の高校生は喫煙の経験率が高いこともあり、顕著な効果はありませんでした。次に中学生を対象にしましたが、やはり喫煙者がいました。最後に小学生を対象にしましたが、これが難しかったです。校長先生から、喫煙を始めていない小学生に何で教育するのかと反対されました。始めたら止めにくく、思春期に好発するからとか色々説明しましたが、なかなか納得されませんでした。
もう一つ印象に残っているのは、安全行動の測定の研究です。先輩が助成金を取って、コレすごいですよね、子どもの飛び出し行動の研究をしました。飛び出しの起こりやすい環境のセットを作って、その場の子どもの行動をビデオに撮って解析しました。この研究を通して行動解析や評価方法について勉強できたし、自分たちで研究する面白さや喜びを感じました。
そして研究結果をまとめて論文を投稿しました。投稿する前に院生の先輩に意見もらうんだけど、これが厳しくて。最初は研究について知らないから当然ですが、ショックでした。でも、そのようなやり取りや投稿後の査読コメントへの対応を考える中で、研究の経験や素養を積むことができたと思います。
そんな中、D3のときに新潟大学の教育学部でポストが空いたので応募したら、幸いにも採用していただいた次第です。
養護教諭の養成から大学院教育へ
― 新潟大学ではどのような仕事をされていましたか?
- 新潟大学では、教育では養護教諭の養成に関わりました。養護教諭特別別科という、看護士の有資格者が1年間勉強して養護教諭の免許を取得するコースの担当でした。だから、養護教諭の関わる学校保健活動には、自ずと興味を持つようになりました。修了研究という卒業研究のようなことも、グループ研究として指導しました。そこで学校保健に関する知見が広がっていったように思います。
自分の研究としては、健康教育を続けていました。新潟で何年かすると、新潟県の先生方との面識もできてきました。そこで小学校高学年対象の喫煙防止プログラム開発と中学3年生までの評価を本格的に始めました。結果として、当たり前なんだけど行動はなかなか変わらないことが分かりました。しかし、顕著ではありませんが、喫煙率の上昇を抑える可能性があることも実感しました。
プログラムの中では、小学生を対象に喫煙に誘われた時の対処の学習を取り上げ、その評価も行いました。海外の研究では対処行動のトレーニングが有効とされ、評価の結果にとても期待していました。評価の指標は対処の自信としました。海外のプログラムを参考に良く考えた内容だったので、絶対に効果があると思っていました。評価するまでも無いと。しかし、実際やってみると介入群の自信は下がり、対照群では変わりませんでした。介入によってむしろ対処の自信が下がったわけです。大変なショックでした。同時に、評価しないとわからないことがあることを痛感しました。このプログラムでは、子どもたちが断り方を考えた後、代表の子どもたちが、前に出てきて誘い役の先生に対処しました。ただ、大人を相手するとプレッシャーが大きくてうまく対処できないこともありました。クラスの子どもたちはその様子も見ていて、自信を下げてしまったのではないかと思います。効果は指導内容に影響されることを痛感しました。
健康教育を行う中でターニングポイントがもう一つあります。当時から、ただ健康への悪影響を教えただけでは行動が変わらないことは知られていました。しかし、何をすればいいのかはよくわかっていませんでした。そのころ海外ではライフスキル1)の研究がされ、効果を挙げていました。そこで、どんなものなのか知るために、アメリカ健康財団のライフスキルプログラムKnow Your Bodyの研修ニューヨークで受けました。研修を受けてみると、プログラム自体がとても面白い。面白くて効果が上がるなんて願ったりかなったりですね(笑)。そこで学んだことを、プログラム開発、教員研修などに取り入れていきました。
━ 兵庫教育大学に移ったきっかけを教えてください!
- 新潟大学での担当学生は1年で修了しました。学生は目的意識が高く積極的で、指導に手応えを感じていましたが、色々出来るようになってきた頃に修了して、新入生が入ってくるっていう感じで慌ただしさもありました。もう少し長い目で関われる環境を探していたところ、兵庫教育大学で募集があり、応募しました。
兵庫教育大学で驚いたのが、学部学生に比べて大学院生が多いこと、また大学院生には現職者が多いことです。赴任当初、現職院生と大学教員の区別がつかず、やたらと挨拶していました(笑)。定員は学部生160人に対して修士課程は300人。そうなると、大学院生の教育にも大きなウエイトを置くことになります。赴任前には学部生の指導をイメージしていましたが、院生指導に大きく関わることになりました。現在は修士13人、博士2人を指導しています。やはり現職者が多いので、現場の課題の解決に関わる研究を進めることが多いです。メリットはフィールドが近いことです。研究テーマは様々で、例えば、自尊感情、目標設定スキル、被援助志向性等の向上のためのプログラム開発や評価研究、緊急時対応の校内研修と評価など、各自の関心をベースに指導可能なテーマに取り組んでもらってます。現職者は研究方法の学習機会が少ない場合があるので、その点も重視して、所属コース(学校心理・学校健康教育・発達支援コース)として教育したり、個人的に指導したりしています。
1) 日常の様々な問題や要求に対し、より建設的かつ効果的に対処するために必要な心理社会的能力
キャリアパス 千葉県管理栄養士としての歩み
━ 大学院に行かれる前は,保健所での業務の他にどのような業務をなさっていましたか?
- 保健所での業務は,保健センターや学校などとの連携した事業が多かったのですが,一度直に対象者に関わってみたいと思っていました.また,栄養士業務の一つである,献立を立てたり,実際に食物を扱う業務をしたことがなく,食物を扱う面で自信が持てずにいました.そこで,児童養護施設を希望し,異動しました.児童養護施設では,調理員さんといっしょにごはんをつくって,子どもたちと食べて,食育をする.これまでの保健所の立場からの「支援」ではなくて,私がやっていくんだという開放感がありましたね.現場の中で考えるというのがとても楽しかったです.
― 児童養護施設では朝昼晩3食を提供されていたと思いますが,大変ではなかったですか?
- 大変でした(笑)勤務した施設は,ユニットに分かれており,1カ所の厨房で給食を作るわけでなく,複数の家で調理員だけでなく,児童指導員や保育士といったもともと調理専門で仕事をする先生ではない方も調に入ることもある状況で,3食つくるのは難しかったです.調理する人の調理技術などを考慮した献立を考えていましたし,子どもの生活に併せて,学校や施設でのイベントなどの事情や予算もあわせて,1つの食事をつくるのには,様々な要素がありました.地元の食材を入手するために,八百屋さんや魚屋さんに仕入れ状況を確認するなど,地域の情報を入手することもありました.そうして献立ができあがります.
― 業務の他に、研究や食育もされて、どのようにこなされていましたか?
- 研究や食育は,業務とすべて連動しています.例えば,子どもたちに食べさせたいものがあっても,子どもが嫌いだから出さないでほしいと先生に言われたりすると,なぜそれを食べないのか,また先生が出さないでほしいという背景が気になる.すると,残食量とか食べやすい方法を調べたり,それを提供した時の評判はどうだったか,誰がどんな支援をしたのかといった研究的な視点が出てきます.仕事をして,疑問に思ったことを調べる過程で,「研究」に繋がっていきます.
特に児童養護施設での経験は,人の生活を深く知りたいと思うことができた機会となりました.
現場と研究をつなぐこと
━ 現場で働いていると,なかなか研究的な視点をもつ余裕がもてないという人もいるかもしれませんが,課題を研究として活かすために心がけていることはありますか?
- 私の場合,これまで研究しようと思って研究が始まるというよりも,目の前の出来事に対して,何か課題を見つけた時,指導教官や研究室の先輩方に話をし,学術的な面からアドバイスをいただいたことが,研究として取り組むきっかけになっています.これは過去の研究でここまで分かっている,でもこれは分かっていないから研究として扱ってみるか,実践と,研究両方の関係者と対話をする中で,テーマが絞られてきます.大学院に行き,助言をもらえる指導教授や友人等の存在ができたことは大きいです.以前より仕事もすごく楽しくなりました.今まで,いろいろな課題の中で,何から手を付けたら良いだろうって途方にくれていたのが,分からなければ調べる手段ができたからです.
━ 今は本庁に戻られたということですが,今後現場でのご経験をどのように活かしていきたいですか?
- 本庁に戻ったのにも理由があります.児童養護施設で働く中で,公衆衛生の場で見えなかったことや,やはり食環境が変わらなければ行動は変わらないと思ったことがありましたし,子どもたちから学校や地域でこういうイベントをやっていたよと聞くこともある.それでもう一度,公衆栄養の現場に戻りたくなりました.子どもたちと朝から晩まで生活する中で,食環境の重要性にあらためて気づいたというのと,地域の中でこういう情報発信がされたら良いんじゃないか?といった考えが自分の中で出てきました.自分が地域で発信できる立場に戻りたいと思いました.現在,千葉県の大学や地元のスーパーなどと連携して若年期,青年期の食育の取り組みを進めているところです.これを足がかりに,食環境の整備をすすめたいと思っています.
━ 若手に期待すること,メッセージをお願いします!
- 現場には,色々な課題があります.その地域に調査などで行ったときにはよく地域全体を観察してもらいたいなと.そして,その地域の背景も含めて,自分の研究テーマがどういう位置づけになるのかなということを,考えてもらいたいと思います.
高橋 希 Nozomi Takahashi
2002年東京農業大学栄養科学科卒業後,2002年千葉県入庁,2008年女子栄養大学大学院修士課程修了,現在は千葉県健康福祉部健康づくり支援課に所属.
きっかけは,大きな目標への第一歩
━ 奨励賞受賞おめでとうございます!受賞の喜びを教えてください!
- 受賞講演でも話しましたが,最初に受賞を聞いたときは現実味がなかったです.これまで,研究者という立場で受賞されている方が多い中で,私は研究を目的としているわけではなく,日々仕事を実践している立場です.学会で賞をいただいていいものだろうかと….喜びよりも戸惑いの方が大きかったです.荒尾先生が講評の際に,実践現場からの報告は重要ですといった趣旨のお話しをいただき,やっと受賞の喜びを感じました.
― キャリアパスについてお伺いします.はじめに健康教育分野に興味をもったきっかけを教えてください.
- 経歴は,大学卒業後,千葉県に入りましたが,栄養教育に本当に関心を持ったのは,働き初めてからでした.当初栄養や食生活の分野を目指したきっかけは,高校生の頃に興味を持っていた社会環境や貧困の問題であり,特に世界の食糧問題の視点からでした.その中でも貧困の子どもたちの経済的な問題や食糧の分配について関心があり,その背景にある教育の重要性については,理解していませんでした.当時は,食糧は困っている人たちに,どうやって届ければいいんだろう?こんな状況で何を食べればいいんだろう?といった視点で考え始め,食生活をより良くすることを学ぶにはどうしたらいいかと考え,選択した学部が管理栄養士専攻過程でした.そこでなぜ東京農業大学を選んだか?東京農業大学は栄養学だけでなく,生物の環境や,食料経済を扱う学科もあり,アジアの留学生受入れや農業技術や生産の面からも国際協力も担っている大学だったので,食料の生産面から学べるところに惹かれて選びました.ここまでが,管理栄養士の世界に足を踏み入れた一歩でした.
━ 千葉県への就職のきっかけは?
- 大学に入ってからも,やはり一番関心があったのは環境や貧困といった途上国の栄養問題でした.国際栄養の分野に携わる人になりたいとも考えていました.そうだったのですが,ちょうど学生の頃の2000年(平成12年)に健康日本21が始まったころでした.その中で,大学の先生に連れて行ってもらった日本栄養士会の講演で,健康日本21と国の医療制度構造改革についての講演があり,栄養施策が国の医療費問題に関わってくることにとても感激し,また管理栄養士が政策づくりに関わって,人の生活や経済に影響を与えるのか!と本当に驚きました.そこで,講演の中で重要な役割を担うとされていた都道府県の栄養施策に関わってみたいと思い,これまで自分が生まれ育ってきた千葉県で仕事をしてみようと思い,方向転換したのでした.
現場での小さな発見と交流の積み重ねからみえた課題
━ 就職してからはどのようなお仕事をされたんですか?
- 医療制度構造改革などと大きなことを頭に思い描いて保健所の管理栄養士になったものの,就職した当初は,あまりにも現場でやっているものが地道というか,地味だなと思ったんですよね.事務的な仕事もいっぱいありますし.理想と現実ではないですけれど,私の仕事,これでいいのかなと思っていました.さらに栄養教育って本当に誰かのために役立っているのかな?とか栄養施策って実際何をすることなんだろう?と,悩む日々でした.
- ところが2年目,3年目になって,地域で暮らす人やそこに存在する組織,機関など,つながりが出きてきた時,何となくこの時の仕事が,直接誰かの食行動を変えるには至らないけれど,周囲の環境は少し変わったといった事を感じられるようになってきました.例えば,地域の小中学校の栄養職員の方々と一緒に,給食施設の衛生管理に取り組んだことをきっかけに,食育活動も連携してやっていきましょうという流れができたといった感じです.自分が出て行った先でどんなことが課題になっているかといった小さい課題をいくつか集めたときに,あれ,他の人も同じ課題を持っていたという発見があります.そして同じ課題を持っている人たちをつないで,みんなで協力して栄養教育に取り組む楽しさを知りました.
特に最初の勤務地は田舎だったので,1フロアにすべての課が収まっているようなところもありました.他部署の方たちともわいわい話しているようなところだったので,気軽に話ができる環境も良かったのかもしれません.
- そのような環境での話がきっかけとなって,一つの課題に多機関や多職種で取り組む機会も持ちやすく,試行錯誤ながら,やってみては,みんなで振り返ることを繰り返す.こう実践すると,こういう結果になったんだということをみんなで振り返る.「評価する」そこから「次の仕事をまた考える」それを面白いと感じるようになりました.でもそれを繰り返していくと何だか成長できていない自分に気づく.また同じところで失敗したっていうのが出てくるんです.評価しても前に進めない.
━ そのご経験が大学院へ進学するきっかけとなったのですか?
- 現場の研究は手探りだと思っていました.他の自治体の取組を参考にすることが多いのですが,自分の地域と全く同じ状況ではない.それを採用しても,何となく行き当たりばったり感は続いてしまう.そういうものだと思っていました.どう情報を入手して選択していくか,事業に生かしていくか分からず,限界を感じていました.そして,思い切って大学院に行ってみようと思い立ちました.
そこで問題が発生しました.千葉県職員なので,辞めたら公務員ではなくなってしまう.仕事は辞めたくないのですが,1年はしっかり勉強したい.これまで大学院等への進学を理由に休職する前例がなく制度もなかったので,何度も要望書を出しては取り下げられ,というのを続けた挙句,何とか承認をいただき,1年休職しました.私が休職することで,臨時雇用をしなければならないので県や職場にとっても大変です.しかし上司や周囲の方々が休職に関して,様々な制度を調べてくれたり,人事課に交渉してくれたり,そのおかげで大学院に行くことができました.その後,大学院に通うために休職できる制度もできました.当時,そのような流れがあり,そこにうまく乗れたのかもしれないですが,その当時の上司や周囲の方々が,人を育てることに熱心な方だったことにも恵まれました.
キャリアパスでひとついえば,実践の場で仕事をする立場からですが,一度業務を経験し課題を見つけて大学院に行くのもありだなと思いました.就職したばかりの頃は,やっぱりもっと勉強してから働き始めればよかったと思うこともありましたが,現場での経験によって,何が分からないのかが明確になっていると,学ぶテーマも絞られます.今振り返れば,回り道ではなかったと思います.
博論を書きながらの子育て
━ 博士課程の学生の時にお子さんを出産されたのですか?
- そうです.社会人になるときつくなるから,学生のうちに産んだ方がいいと思ったんです.28歳の時に結婚して30歳近くになっていたこともあって.医学研究科4年間の博士課程の期間のうち,1~2年で大体筆記の方は終わったので,3~4年の論文を書く期間のうちに産んで,家で育児をしながら書こうと思いました.それで,指導教員の稲葉裕先生(現 順天堂大学医学部名誉教授)に「子どもを作ってもいいでしょうか」と相談しました.実はその前に講座の女性の先生方にもご相談したのですが「学生のうちの方が絶対いいわよ」と言われて,よし,大船に乗った,という気持ちで,いざ稲葉先生にご相談したわけです.そうしたら,稲葉先生はさらっと「私は推奨しますね」と言ってくださったんです.それで,3年生の1月に産むことができました.でも,実際は産んだらめちゃくちゃ大変で,とてもじゃないけれど,論文を書けなかったです.夜寝た後に,ようやくパソコンを立ち上げることができるのですが,そうすると泣くんですよ...もうしょうがないから最後の方は,片手で授乳しながら,片手でPCをたたいて博論を書いていました.稲葉先生から直接ご指導いただきたい時は,1時間おんぶして揺らしながら先生と会話して,ということもよくやりました.
- そんな感じでなんとか学位もいただけましたが,本当に博論でいっぱいいっぱいだったので,就活はできなかったです.ご縁があって1年間は順大でポスドクをさせていただき,その後,国立がんセンターへ行きました.ヘルスプロモーションなのに,なんでがんなの?と周囲からは不思議がられましたが,自分でも修行だと思いながら行くことを決めたんですよ(笑).でも,行くからにはきっかけがありました.当時,がんセンターの上司となった祖父江友孝先生(現 大阪大学医学部教授)のもとに,採用前に面接に伺った時のことです.「健康増進法もいいけど,がん対策基本法って知ってる?」と言われたんです.がん対策基本法が成立したのは2006年.祖父江先生との出会いはその翌年でした.稲葉先生の科研費で政府統計の解析を通じた格差研究班をご一緒させていただいたことがご縁でした.政府統計を解析すれば短期間で論文が書けるかもしれないけれど,君がやりたいのはそういうことではないでしょう,と私の本心を見抜いてくださったのだと思います.以降,がん対策の研究事業に携わらせていただいていたところ,がん教育が政策課題に浮上してきたあたりから,ブーメランで今の業界に戻ってきた感じですね.今思えば,自分のやりたいことをやらせてもらえてきたなって思いますね.
― 子どもを産みながら博論を進めることができるなんて,驚きです!
- 稲葉先生をはじめ,夫も週末になると子どもを外へ連れて行って3時間くらいベビーカーを走らせてくれたり,お姑さんも協力してくださいました.そういう周りの協力がなかったら,このような賞もいただけなかったと思います.私は恵まれているのだと思います.
部活の先生に憧れて・・・
━ 元々保健体育の先生になろうと思ったきっかけは何ですか?
- 体育大学にはよくある,部活の顧問の先生みたいになりたいと思ったのがきっかけです.ずっとソフトテニスをしてきて,中・高の顧問の先生に憧れていました.高校時代の顧問の先生は,保健体育の教員でもあり,人間的な付き合いをしてくださったんです.そこで,改めて,「よし,体育の先生になろう」と思いました.さらに,大学の講義では,大津一義先生(現 日本ウェルネススポーツ大学教授)の初めての講義でのお言葉を肝に銘じています.それは,「体育の教員なんていない.君たちが目指すべきは,保健体育の教員だ」という一言です.この言葉が印象に残り,今では,それを教職課程科目の初回に学生に伝えることにしています.
貫くこと,そして,人とのつながりを大切に
━ 若手へのメッセージをお願いします!
- 遠回りをしてきたので,何ともいえないのですが,良くも悪くも,周囲から言われるのは貫いていると..研究という意味では,貫くことは悪いことではないと考えています.研究テーマは研究室によっては指定されるかもしれませんし,方法論もその時々の研究デザインの限界によって変わってくるかもしれませんが,自分がやりたいテーマ,コアとなるもの,ヨコ串になるテーマを持つことが,健康教育やヘルスプロモーションの分野では大事だと思います.
私の場合,根幹となるテーマはパーナトーシップ.ヘルスプロモーションのプロセス戦略のひとつである調停(分野を超えて協働する)というもので,それがわたし流のヨコ串なんだと思います.そんな私がよく思うのは,私の仕事は隙間産業だなと.行政の人から,「何者ですか?(女性だから)保健師さん?」と見られることもありますが,「専門職じゃなさそうだね,でも,なんか行政事情知っているよね」と言われるんです.それが自分の強みだと思っています.例えば,行政に就職するとしたら,栄養分野なら(多くが)栄養士,看護分野なら保健師,のようなレールが敷かれていると思いますが,私のように医療系以外の分野の人なら,多くが一般事務職になるかと思います.事務職はいろいろな分野を回れるだけに,ジェネラリストとしてヘルスに関心を持てることは,ヘルスプロモーション展開上,とても強いと思うのです.こういう学生を育てていくのが夢ですね.そこが自分の強みだと思っていますから.それぞれの分野のノウハウを,異なる分野にも生かすことは大きな労力が必要ですが,それがヘルスプロモーションの醍醐味です.でも,結局は体力のある若いうち,特に学生時代にそのような分野間交流を積極的にやっておくと良いのではないでしょうか.じゃないと,年取ってからだと名刺交換から始まって仰々しくなり,仲良くなるのに時間がかかりますよ(笑).若いうちの方が垣根を越えやすいと思います.もちろん,社会人になってからしばらくは昔の友達との関係が疎遠になることもありますが,ご縁があれば大人になってまた出会い,「おー,久しぶり!」となります.お互い成長した時に,仕事が一緒にできる楽しみもあります.私は,ここ最近そういうのが増えてきましたね.日本健康教育学会にも,その「同士」がいます.これが若手の皆さんにお送りできる唯一のアドバイスでしょうか.
━ 自分をつらぬくことが難しい時はどうしていましたか?
- 自分の使命は,研究すること+自分のスタイルである協働することだと考えています.風あたりの強さには,いい意味で鈍感なのだと思います.色々言われてきましたがが,少なくとも理解者もいて,そのような方たちに恵まれて研究をしてこられたと思います.自分がやりたいことを提案していけば,必ず一人くらいは応援してくださる方がいる.それがパートナーシップの研究をしている私の理屈です.
助友 裕子 Hiroko Yako-Suketomo
2007年順天堂大学大学院医学研究科博士課程修了後,2008年国立がんセンター(現国立がん研究センター)リサーチレジデント,2011年同センター研究員,2013年日本女子体育大学体育学部准教授,2017年同大学教授に就任.
現場第一主義の研究
━ 奨励賞受賞おめでとうございます!受賞の喜びを教えてください!
- ありがとうございます!とてもありがたいと思っています.ありがたい一方で優秀な若手の皆さんには申し訳ない気持ちもあるのですが,もうすぐ奨励賞の条件に年齢が迫ってきているので,それを察した先生方が拾ってくださったと思っています.それにしても,昨日の夜は眠れなかったですね.これまで,研究デザインは現場に合わせる主義でやってきました.コントロールを設けるエビデンスレベルの高い研究をやろうとすると,現場の事業と足並みを揃えることができなくなるんです.日頃の現場のルーティーンを崩すことなく,いかにすき間に入り込めるか,あるいは協働できるかということが私の研究のポリシーなんです.でも,それがかえって,ちゃんとしたデザインで研究をやらない,やってこなかったところが,奨励賞をいただいて良いのかなという気持ちに繋がっていたと思います.
― 先生の奨励賞受賞講演を伺って, 現場を優先した研究に感動しました!
- ありがとうございます.研究費が終わったら,そのプロジェクトも終わり,では意味がないんですよね.いかにそれをきっかけとして行政が自分で予算化して回していけるかが大事で,私はきっかけ作りに携わりたいと思っています.そのきっかけ作りとは,現場の方々が感覚的にお感じになられている「この事業には価値がある」ということをエビデンスとして客観的に説明する,=論文にすることだと思っています.
━ 現場を大切にしようと思ったきっかけはありますか?
- ルーツは島内憲夫先生(現 順天堂大学国際教養学部副学部長).学部,修士,助手の間の10年間,島内先生のお世話になりました.先生は講演活動などを通して色々な自治体に連れて行ってくださいました.その時に,現場の保健師さんにお会いしたり,食生活改善推進員などの保健ボランティアの方々にお会いしたりしました.そのような場所へ初めて行ったのが,修士の時だったのですが,青森県の階上町に1泊した帰り際に,保健協力員の方々がお別れパーティーをしてくれたんです.すごく感動して,泣いて,こういう活動があることを初めて知りましたし,学生ではなかなか地域保健組織活動に触れ合う機会もありませんでしたので,すごく新鮮でした.それまでは保健体育の教員になることしか自分の世界観の中にはなかったと思いますので,島内先生に世界観を広げていただいたと思っています.それが原点で,今でも新たな研究をスタートをさせる際には,必ず現場に足を運ぶようにしています.途中に妊娠・出産など自分のライフイベントもあって,思うように外に出られなくなり,政府統計など数字ばかりを追いかけている時もありました.でも,かえってそのような時間があったことで,客観的な学びもあり,再び色々な人との出会いで,現場といかに協働するかを考えるようになりました.その方が自分も楽しいんです.私は研究者として研究活動を軸にしますが,現場の方々は価値ある住民サービスをいかに事業化できるか,予算を付けられるのかが日々の仕事の軸になります.そのような現場との接点を探ることを通して,win-winの関係を築くことができるのが私は楽しいのでしょうね.
教育実習で感じた違和感と研究の面白さ
━ 大学を卒業してから大学に残ろうと思った理由やきっかけはありますか.
- 最初は保健体育の教員になりたかったんですよ.加えて特別支援学校の教員免許課程も履修していました.特別支援の教育実習に行っている時,土曜の午後に先生方がランチに誘ってくださったんです.喜んで行ってみたら,先生方がレストランにジャージで来たんですよ.レストランにジャージですよ!(笑)違和感がありました.学校の先生って,学校では生徒,生徒って一生懸命だけれど,地域に行くと視界が開けないのかも,とさえ思いました.生徒は学校に行くまでに地域を通って地域の人に理解されながら来ている.だから生活の場全体に教員も気を配らないといけないなと思いました.そう考えると,その時の自分には,そうなれるだけの自信はなかったですね.これはもっと勉強しないとだめでしょうと思っていたら,ちょうど島内先生から「すけちゃん,大学院もあるよ」と声をかけていただいて,いとも簡単に「よし,じゃあ大学院に行こう!」と進学したわけです.そうしたら研究がすごく面白くて,もっとこちらを勉強したいなと思って,保健体育の中でも保健分野の方にのめり込んでいきました.
今となっては,学校の保健体育の授業でも,ヘルスプロモーションの視点で地域の保健活動を学ぶ内容が入ってきているので,学生さんにフィードバックできていますが,院生時代は,何も考えず,ただ楽しいと思ってやっていました.でも,研究を進めている途中,保健体育の教員になりたかった自分はどこへいったんだろうなんて思うこともありましたね.さらに,若いうちは色々あるじゃないですか・・失恋したあかつきには,「今は研究をやるしかない!」って集中したりして.当時Windows95の時代で急に画面が黒くなってPCがフリーズしたりして.「もう,神様助けて!」と思った時もありました(笑).そんな時に私情を知る周りの友だちや先生方が支えてくださったりして,無事に修士を卒業することができました.もう,これはしばらくこの研究をやるしかないでしょうという雰囲気もあって研究を続けることとなり,大学に残って助手になりました.
━ 周りの雰囲気もあったのですね.
- そうなんですよ.そしてその時に,順大で第9回の健康教育学会があって,ヘルスプロモーションの産みの親のイローナ・キックブッシュ博士が特別講演でいらっしゃいました.当時,私は事務局を手伝っていましたが,そこで,事務局長だった島内先生が「今度,裕子が勉強しに行くからね」って紹介してくださったんです.その一言がご縁で助手の間,キックブッシュ博士が教授をつとめられていたイエール大学に1年間だけ客員研究員で勉強させてもらえたんです.そうしたら,世界のヘルスプロモーション事情を知るにつれ,もっとヘルスプロモーション研究を深めたいと思うようになりました.この時には,研究の道へ進みたいという気持ちが強くなっていて,「やっぱりドクター行かないとでしょう」と考えていました.修士は目の前の調査をこなすことに精一杯でしたが,自分で研究デザインを考えて,現場の人ともやり取りができて,という交渉スキルをもっと身につけないといけないなと思ったんですよね.それで帰ってきてから博士に進学しました.そうすると,どんどんどんどん,ブーメランのように自分が元々やりたかった保健体育から離れていって,気づいた時には子どもを産んでいて,毎日があっという間に過ぎていきましたね.
21世紀は医療に並んで“学問”と“人材育成”が達成されなければならない,その中心にあるのが健康教育
━ これからの健康教育分野への願いはありますか?
- 20世紀は寿命を延ばすことに貢献してきた“医療”に対して,21世紀は延びた寿命の中身,つまり生活の質を担保するのが“健康づくり”に関わる学問だと思う.医療や臨床と同じくらいの実績が出てきてほしい.2035年問題もあるし,それが若手の使命だよね.
目の前のことだけでなく,10年後の目標も大切に
― 若手の実践活動者・研究者への応援メッセージをお願いします!
- 健康教育といっても僕の中では「健康づくり」にこだわっている.それはこれからの「健康づくり」っていうのは個人だけではなく,大きな成果につながる研究をしてほしい.そのために必要な能力などを身につけていってほしい.自分がプロジェクトを組めるような年代になってきたら,大きな社会的成果をあげれるような研究ができる,という目標を志して.目の前の研究も大切だけど,10年一区切りくらいの目標ももつことを忘れないでほしい.そうしないとロマンがなくなっちゃうよね(笑).研究はロマンがないと!「俺が日本の社会保障制度を立て直してやる!」そういう熱い思いが大事.
━ 若手研究者が研究費を獲得するためのポイントを教えてください.
- 「科研費に採用される」というのは,論文のように業績のひとつになる.この分野に限らないけれど,研究費の獲得のためには大きく2つあると思う.
- 1つはオリジナリティーのあるアイデア,もう1つは「具体的に書き,実現可能性をアピールすること」.
- いくらよい研究計画であっても,実際にできるのか,どこで実施するのかあるいはフィールドとの関係性,過去の実績などが反映されているか,という点については,これまでの審査委員の経験でも,注意してみるところだね.
━ 若手研究者がフィールド開拓するのはとても大変ですよね.何かアドバイスはありますか?
- そうだね.初めから自分のフィールドを持つのはとても難しいことだと思う.一番いいのは,大きなプロジェクトに入って経験を積む,つまり自分でフィールドを開拓するための経験を積むということだね.注意しなければならないのは例えば,行政と研究者は常に平等でなければならない.上下関係はなし.give and take ともいうかな.最初は相手に貢献することを惜しんではいけない.その相手への貢献は信頼関係を築くことにつながる.そうすればお互いの要求を通しやすくなる.現場というのはなかなか大変.とても多忙で,皆が研究をやりたい!と思っているわけではない.まぁ,最初はgive give give という感じかな?(笑)でも若手でもフィールドの開発にもっと力を入れてもいいんじゃないかなと思うこともあるよ.
━ 他分野共同研究の際に気をつけていることは何ですか?
- 他分野の研究プロジェクトリーダーは,研究に対する熱意,つまり研究を実現するためのエネルギーをもつ人材に声をかけたいと思うよね.若手は研究の一メンバーとして役割を担い,全うする,能力をどうつけるかが大事.だからプロジェクトリーダーから声をかけてもらえるような,人材になっている,準備しておくことも必要だよね.もちろん自分をアピールすることも.そうすればフィールド開発にもつながるし,自分の将来,40~50歳代にプロジェクトリーダーとして進めていかなければならなくなったときにも,この経験は役に立つ.特に公衆衛生分野は一人でやるものではなくチームでやるもの.いい研究をやろうと思えば思うほど,一人では出来ない.まずは早い時期から何かのプロジェクトに入れてもらえるような人間関係を築いて,仕事を進められる人材になっていること.
- 研究に必要なことを認識し,実行すること.例えば自分の研究分野を突き詰めていくと,新しい統計解析が必要になる場合もある.その場合は他分野の専門家を巻き込むことも必要だよね.研究には妥協しない.
━ 学術大会にむけてのメッセージをお願いします.
- 引き受けたからには「僕にしかできない学会を」という想いをもって進めています.健康づくりの社会的使命を全ての人が認識し,社会的成果につながるような分野にしていかなければならないと思っている.こういう想いを込めて,学術大会のプログラムを組んでいる.世界的にも国内的にもすばらしい研究者を呼んでいます.もっと色んな人を呼びたかったけれど,二日間という限られた時間で最大限のプログラムを構成できたと思う.足りない部分は,学術大会の前日の企画を用意しました.ぜひ,参加してくださいね.健康教育分野では,まだまだ若手が目立たない.若手が育ってほしい.活動してほしい,活躍してほしい.そんな学会になってほしいからね
- 今後の国際化も合わせて考えていかなければいけない.プログラムにもあるように,特に日本が先行している超高齢社会というのは日本を中心とした中国,韓国,台湾などの4カ国に集中している.極東アジアの問題といってもいいくらい.各国自国の問題解決や利益を優先にする政治はぶつかり合いを生んでしまう.第3次世界大戦を未然に防ぐためにも世界的な流れを踏まえながら健康づくりを進めて行きたい.
荒尾 孝 Takashi Arao
1970年福岡教育大学教育学部卒業.1974年順天堂大学大学院体育学研究科修士課程修了.財団法人・明治生命厚生事業団体力医学研究所勤務.2005年早稲田大学スポーツ科学学術院教授に就任、現在に至る.
ポピュレーションアプローチに対するこだわり
━ 先生の今取り組んでらっしゃる研究内容を教えてください!
- 現在は、地域全体の健康レベルを上げる方法と評価について研究している。具体的には、地域高齢者全員を対象とした生活実態調査を実施し、膝痛や抑うつ、認知症をターゲットとした介護予防プログラムを開発している。
━ 「地域全体を対象とした研究」という点にはこだわりがございますか?
- そこには非常に強いこだわりがある。10年くらい前まではハイリスク者を対象として行動変容による生活習慣病予防がメインであったが、ベビーブーム世代が後期高齢者となる2035年に向けたこれからの健康づくりにおいては、ハイリスクアプローチだけでは大きな社会的成果を挙げることができない。これからの研究においては医療費や介護費の抑制による社会保障制度の維持といった社会的成果に貢献できる研究が求められる。そのためにはハイリスク者だけでなく、全ての人を対象とした研究の実施が重要であるので、強くこだわっている。そのこだわりが今回の学術大会のテーマに象徴されている。
キャリアパス
━ 先生のこれまでのキャリアパスを教えてください!
- 両親が学校の先生であったこともあり教育学部に入った。
- 教師になりたかったわけではなく、卒業単位もギリギリだった。
- 卒業前に「自分が何をやりたいのか?」を考えた時に、途上国への支援事業を通じて国際問題解決に貢献したいと考え、青年海外協力隊を目指した。でも、2年待っても海外には行けなかった。このまま待っていても仕方ない、自分から仕掛けなければ!と考え、新たな道を目指すことにした。
次に何をやりたいかを考えた時に、思い浮かんだのは勉強だった。僕たちが学生の時には学生運動真っ盛りで、ほとんど授業なんか受けられなかったから、改めて何かをしっかり学びたいと思った。それを実現するために大学院に入った。この頃に研究者として生きていくことを考え始めていた。
大学院では石河利寛先生の研究室に入り、運動生理学について研究していた。この頃は猛烈に勉強したね。就職は石河先生の紹介で明治安田厚生事業団に入ることになった。タイミングが良かったんだね。
研究所ではそれから57歳まで働いた。最初は生化学分野の研究をしており、ずっとマウスの研究をしていた。生化学でも結構楽しくやってたんだけど、40歳ぐらいの時に保健師をしている妻から糖尿病罹患者を対象とした健康教室を頼まれてやることになり、健康教室と参加者の自主活動グループ化をし、それが初めての健康教育の仕事となった。それまではいつもマウスの研究をしていたけど、健康教育を通じて人の健康に貢献できることを実感できたのは非常に大きな喜びだった。その後、40代中頃に生化学から公衆衛生分野へ大転換することとなった。40代は研究者として一番専門性が高められる良い時期だし、そんな時に分野を変えるなんて非常に珍しいと思うけど(笑)。当時の仲間から「見事な転身ぶりですね」って言われたこともあったなぁ.
疫学分野において成長することができたのは、柳川洋先生との出会いが大きいね。厚生労働科学研究費補助金の公募が始まった年に申請書を出したんだけど、初めてやるものだから勝手がわからない状態で、申請した分野と申請書の内容がずれていて採用はされなかった。でも、審査委員の先生が柳川先生に「面白い研究をしている人がいるから面倒をみてあげてほしい」と紹介してくれたらしく、柳川先生の研究グループに入れることになったんだ。その時期に人間関係の構築や本格的な疫学手法について勉強をすることができたね。
50歳を過ぎ、研究者人生最後の仕事は、人材を広く育成することが自分の使命と思い始めるようになった.ちょうどその時期に早稲田大学スポーツ科学部から誘いを頂いた。すぐには難しかったけど、3年待ってもらい、その話を受けることにしたんだ。
インタビュー後編は,先生の健康教育分野のへの願いと,若手への応援メッセージを届けします!(根本,中村)
研究者としてのキャリア形成
━━ 学位取得後から現在までのキャリアパスの詳細ついて教えてください!
- 食生態学研究室の院生・スタッフと修士課程を修了し、米国登録栄養士の資格を取得したのち、帰国しました。その後、東京医科歯科大学大学院に進学し、博士課程を修了しました。博士課程の在籍期間中は、当時の独立行政法人国立健康・栄養研究所で、学童期の子どもや妊娠可能な年齢の女性を対象とした介入研究や、国民健康・栄養調査データを用いた観察研究に従事しました。
学位取得後は、国立保健医療科学院や女子栄養大学でポスドクを経験しました。今回の受賞のきっかけとなりました特定保健指導に関する研究は、女子栄養大学で特別研究員をさせていただいた際に始めた研究です。その後、千葉県立保健医療大学にて教育・研究に4年間従事したのち、現在の所属である女子栄養大学に専任講師として着任いたしました。
教育面では、管理栄養士養成課程において栄養教育分野の教育を行っています。研究面では、前述させていただいた特定保健指導に関する研究のほか、健康の社会的決定要因に関する研究や、大学生の保健教育の一環として結婚や妊娠時期計画支援に関する研究にも関わる機会もいただきました。現在は、女性の健康の社会的決定要因の研究に従事しています。
━学生時代または若い頃にしておいてよかったと思う若手へのアドバイスがあれば、教えてください!
- 若い頃に「しておいてよかった」というのは全ての経験が該当するので、無茶な経験も失敗も全て今思えばよい経験です。大学進学時も、学びながら専攻を決めることができる点がきっかけとなり、アメリカに留学しました。もともとは政治や経済に関心があったのですが、途中で栄養学を学ぶ決心をし、大学も転学しました。留学中は悔しい思いもしましたが、視野も広がり、修士課程も含めて僅か年間という短い期間ですが、努力した分結果が返ってくるといった充実した日々を過ごすことができました。 ただ、「もっとしておけばよかった」と思うことは、苦労してデータを得るような経験でしょうか。研究者としてのトレーニングは帰国してからですが、若い頃もそれなりに地方などにも出かけたり、介入研究に携わるなどの機会などもありました。しかし、何日も泊まり込みで特定の地域の調査をするなど、自分の足を使って調べる経験をもっと積んでおきたかったと思う気持ちもあります。 自分の時間を使えるのは若い頃だけだと思います。仕事を始めれば関連する諸々の仕事・業務なども増えますし、女性の場合は特に結婚や出産などを経て役割が増えると、その分自分のために使える時間はどんどん減っていきます。もちろん、今の経験全てが将来の自分の糧にはなっていきますが、やはり気力も体力も十分な若いうちに、結果を気にすることなく、存分に色々な経験を積んでいただきたいと思います。そして、時間を有効活用する中で、プライベートも充実させて、エネルギッシュで楽しい時間を過ごし、人生を豊かにしていくことが研究にも生きてくると思います。
若手のうちは、少し無茶なことにもチャレンジできる時期ですね.
林先生,お忙しい中,貴重なメッセージを頂きまして,ありがとうございました.
(中村,根本)
林 芙美 Fumi Hayashi
1999年University of Delaware卒業.2001年Teachers College, Columbia University修了.2008年東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科博士後期課程修了.千葉県立保健医療大学健康科学部栄養学科 講師を経て、2015年4月から女子栄養大学栄養学部の専任講師として研究・教育に従事.
今回のインタビュー記事は、若手の会の担当者がメールや電話でご質問し、林先生に原稿を執筆していただきました。
若手の会では全国各地にいらっしゃる先生方とのインタビューの方法を検討中です。
林先生、若手の会の新たな試みにご協力くださり、ありがとうございました!
健康教育分野に興味をもったきっかけ
━━ 当学会の奨励賞受賞おめでとうございます!受賞した喜びを教えてください。
- ありがとうございます。このたび、多くの先生方のご指導のおかげで、奨励賞を受賞できたこと大変光栄に存じます。
受賞演題名は「行動変容を促す効果的な生活習慣病予防の指導に関する研究」です。主に特定保健指導における減量を目的とした支援について研究した成果をご評価いただきました。
特定保健指導を受けて減量に成功された方や、思うような結果につながらなかった職域男性を対象にインタビュー調査を行い、探索的に関連要因やそのプロセスを明らかにしました。また、量的研究も組み合わせ、得られた知見を基に作成された保健指導者向けの支援ツールの有効性を検証いたしました。本研究は、厚生労働科学研究の一環として実施したものですが、多くの先生方のご助言をいただきながら、初めて質的研究にも取り組みました。膨大な記録の切片をもとに、それらを積み上げてストーリーを構築していくプロセスでは、理論的に概念が体系化されていくことに喜びを感じつつも、分析や論文執筆において多くの苦労もありました。
その度に、ご助言下さった諸先生方に、この場をお借りして深く御礼を申し上げます。今後、さらに研鑽を積み、貴学会でもまたその成果を発表させていただきたいと思っております。
自分が進んできた道を信じて,貪欲な気持ちが大事
━━━ 筑波大学進学の動機,卒業後の進路について教えてください!
- 私は中学,高校とラグビーをやっていてね.大学でもラグビーがやりたくて,筑波大学に進学した.4年間ラグビーに打ち込み,学部卒業後は,修士課程に進学した.修士課程のコースには「体育学」,「コーチング」,「健康教育」というテーマがあったけど,体育学やコーチングはあくまで「実技」.僕が打ち込んでいたラグビーも,競技であって,健康のためではない.修士課程のコースの中でも,人の健康づくりに興味があったから,健康教育のコースに進んだ.
━━━保健・体育の先生の道には進まなかったのですか?
- 大学4年の就職活動の時期に,保健・体育の教員になろうと思って教員採用試験も受けた.でも,「自分にはまだ足りないものがある,研究に未練がある」と思い,修士課程に進むことにした.この時の決断が私の人生の分岐点かな.修士課程の研究テーマは,学生を対象とした保健行動論.今では街中にあふれているフィットネスクラブや健康教室などの健康づくりの場はまだまだ少ない時代だったから,保健体育で健康と言えば学校保健だった.それからずっと専門分野は学校保健.
チャンスを逃さずトライ!する勇気
━━━琉球大学に就任したきっかけは何ですか?
- 修士課程を修了して,就職先を探していたタイミングで公募があった琉球大学にトライ!した(笑).タイミングも大事だけれど,チャンスだと思うことがあったら挑戦してみたほうがいい.そういう私は,実は就職するまで沖縄に行ったことがなかったけれどね(笑).
- 就職した琉球大学は講座制ではなく,助手でも一人で授業や研究を進めていかなければならなかった.私は共同研究チームを組まずに,自分の好きな研究を独自に進めてきた.大変そうに思えるけれど,これが私の性に合っていてね.それでも,約30年間,今まで研究を続けてこられたのは,沖縄の風土や雰囲気が合っていたのかな.今では何千人もの人から調査の協力を得ることができるようになった.今の私の歳からでは,こんな素晴らしいフィールドを作ることは難しいよね.
━━━学校への調査の協力はどのように得ることができたのですか?
- 琉球大学に来た初めの頃,▲▲高校には○○先生がいる,■■高校には○○先生がいる,というふうに知り合いの先生にお願いしていた.僕はラグビーをやっていたから,そのつながりがとても役に立った.たいていの高校には陸上部があるから,陸上部の顧問の先生にお願いしたこともある.そうしてだんだんと広がっていった.今度の学会で事務局長をお願いしている教育学部の宮城政也先生は,沖縄のほとんどの高校の先生を知っているので,サンプリングの協力をお願いすることもある.これは沖縄の研究者の強みかもしれない.2002年,2005年,2008年,2012年,2016年(予定)の計5回は,全県の約半数,つまり25~30校の高校を抽出して(各学年1クラス),約3000人強のサンプリング調査をすることができた.日本でこういうことができる環境は少ないと思う.
先を見据えて行動することが大切
━━━ 若手研究者にアドバイスを下さい!
- 論文を書くこと.そして,査読のある雑誌に投稿すること.納得できない査読もあるけれど,「なるほどな」と思う査読もある.何よりも,誰かに指摘してもらわないと分からないことがたくさんある.大学院生のうちは指導教員がいて,就職しても講座制なら教授の先生に指摘してもらうことができると思うけれど,そういう環境がない人は,査読者を指導教員だと考えるのも一つの手だと思う.実際,僕はそうしていた.論文が掲載されれば実績にもなる.できれば国際誌に挑戦してほしいかな!
- あと,チャンスがあればいろんなフィールドに関わると良い.僕は一人でやるのが好きだったから,なかなか機会がなかった.僕らのような人を対象にしている疫学分野は,フィールドがなければ研究ができないでしょ.参加できるプロジェクトがあればできるだけ参加したほうがいいと思う.
━━━ 若手の頃研究費に困ったことはありませんでしたか?
- 教養部にいた頃は,学内の運営交付金が潤沢にあったので困ったことはあまりない.もちろん,それだけでなく競争的資金にも応募していたよ.メインの学校保健研究だけではなく,興味のあること,面白いと思うことはできるだけやってきた.ボートセーリング(ウインドサーフィン)の研究やラグビーのレフェリーの運動強度の研究も競争的資金をもらってやっていた.だれもやっていない研究だったから,論文を書いた.研究費がないなら獲るしかない.科研費だけでなく,民間企業の助成金,自治体の助成金などに応募することが大切だと思う.若手のうちしか応募できないものもあるし,競争的資金を獲れば実績になるので,次の競争的資金を狙う時にもつながる.
━━━ ずばり,どうすれば採択されますか・・・?
- 申請の時期になったら真剣に考えて,真面目に書くしかない.僕の場合は審査員をやっていたことがあるから,審査のポイントも心得ている.当たり前であるが,まずは応募する競争的資金の目的をしっかり把握して,評定項目それぞれに応えるように書いていくこと.もちろん研究実績も重要で,とにかく論文投稿や学会発表をたくさんしておくと良いと思う.ここで大切なのは,今行っている研究が次につながるように,「ストーリー」を考えておくこと.例えば僕は,科研費を獲った時から次の科研費のことを考えるようにしている.
- その他にポイントだと思うのは,分野外の人が見ても分かるように書くこと.僕は一通り申請書を書き終えたら,小学校の先生をやっている妻に見てもらうことにしている.この内容だったらお金をあげても良いと思うかどうかを聞く.あんまり良いとは言ってくれないけれど(笑).「この部分はさっぱり意味が分からない」とかは言ってくれるよ.
高倉先生から,健康教育への熱い想い,若手へのメッセージをいただきました.沖縄大会を終えて,次の課題は論文を書くことかな,と気合を入れる若手の会メンバーでした.(新保,町田,中村)
高倉 実 Minoru Takakura
1981年筑波大学体育専門学群卒業,1983年筑波大学大学院体育研究科修了.1983年琉球大学教養部助手,講師を経て,1997年より琉球大学医学部助教授,2005年同大学教授に就任.
沖縄の人には健康教育を,学会に来た人には沖縄のことを,知ってもらいたい
━━━ 学術大会へ向けた想いを教えてください!
- 沖縄県の大学の教員としては,沖縄県で学会員を増やすとか,少しでも沖縄の人が発表しようと思うとか,日本健康教育学会の認知度を高めていきたいという想いが一番大きいかもしれない.日本健康教育学会は研究分野がなんでもありの学会でしょ?それぞれの専門分野の人が,それぞれの専門の学会を作って細かく活動することが多いけれど,日本健康教育学会には医歯薬,保健体育,栄養,看護,保健師など,色々な分野・職種の人がいる.様々な専門家が集まって発表する機会を沖縄県で設けることに,大きな意味があると思う.
- 今回は沖縄県で開催するので,沖縄に関するシンポジウムを入れた.みなさんに,改めて沖縄のことを知ってもらおうと思っている.
- みんなは,沖縄の健康課題について知っていますか?
━━━ ええと・・・
貧しくも長生きだった沖縄県の不思議
- 沖縄は今まで長寿県で,それはみんなが知っていると思うけれど,現在の詳しい状況を知ってもらおうと思う.沖縄は,年間所得が最低で,進学率も低いし,失業率は高くて,経済状況がよくない.経済状況が悪い所は平均寿命が短く,健康状況も悪いことが多い.でも沖縄は貧しい県なのに,何年か前まで,日本で一番長寿だった.これは社会疫学的におかしいことで,沖縄は特殊な地域.僕達は昔からおかしいな,なんでかなと考えて,気候のせいとか,食べ物がいいとか,社会的な繋がりがいいんじゃないかという話をしていたけれど,これまで学術的に追及して書かれた論文は少ない.これは僕らが作らないといけない!ということで研究を進めてきた.まだまだ足りないこともあるけれど,ひとつずつそういう知見を知らしめたい.沖縄は世界でも注目されている.医学研究科の地域疫学セミナーでイチローカワチ先生を呼んだことがあってね.イチローカワチ先生は僕達と同じように「食べ物や遺伝子とはちょっと違って,社会的な繋がりがやっぱり重要なんじゃないか」と話していた.今回の学会のテーマも「結で作る健康教育」という名前を付けたんだけど,沖縄には「ゆいまーる」という言葉が昔からあって,なにかあったら助けるという助け合いの精神が強い土地柄なので,それが健康悪化のバッファーになっているんじゃないかと考えている.
- それから,同じ遺伝的素因を持つ沖縄県民でも,高齢者,僕ら世代,若者という戦前,戦中,戦後の時代の変遷の中で,戦前の人は長生きする,戦後の人は早く死ぬ.同じ沖縄県民の遺伝子だけれど,時代の変遷と共にこれだけ劇的に変化している.これでは遺伝子だけの問題とは言えないでしょ.
- DOHaD説(Developmental Origins of Health and Disease)じゃないのっていう話もあって,沖縄県は昔から低出生体重児が多くて,胎内環境が悪い中で生まれた子どもが,米国化された沖縄の食事をたくさん食べて一気に太ってしまい,僕ら世代は早く死んでしまうということも考えられる.今も低出生体重児は多いから今後も続いていく可能性がある.でも,イチローカワチ先生が言うには,この状況は男性にはあてはまるが,女性にはあてはまらないのではないかと.「330(サンサンマル)ショック」って,わかりますか? 都道府県別の生命表が5年おきに出されているけれど,その平均寿命の順位をとって,なんとかショックって言っている.沖縄は1995年より前まで男性も女性もずっとトップだった.でも1995年で男性が4位になった.県としては,4位でも長寿だったので,1995年に世界長寿地域宣言をして,順位が下がるのを食い止めようと思ったけれど,2000年に,男性が26位まで落ちてしまった.これが「26ショック」.でも女性はまだトップ.それから下がってきていて,2010年に男性が30位,女性が3位になった.これが「330ショック」.僕は色々な所で,「沖縄県民は330ショックでサンザンな目にあっていますね」と言っているわけ(笑).次の生命表が出る時にはまた落ちてしまう可能性があるけれど,今のところ女性の順位は高いから,DOHaD説だけではやっぱり説明ができない.他に考えられるのが,今まであまり注目されておらず,調査も少なく実態が不明で,科学的に証明されていなかった社会関係が鍵になるのではないかという話になっている.
- ※DOHaD説:人の健康および疾患の素因の多くは,受精卵環境,胎内環境,乳児期環境にあるという説.
━━━一番興味があるのは,集団の力
- 僕が一番興味があるのは,学校における集団の力.心理社会的,学校環境,学校風土,スクールコネクティッドネス,学校連帯感とか.欧米では,集団の力が個人の健康に影響しているということがたくさん研究されている.それを沖縄でやっている.集団の力とソーシャル・キャピタルは非常に近い概念だったので,ソーシャル・キャピタルを学校に適用して今に至っている.元々,社会や集団の力に興味があって,よくよく考えたら沖縄はそれが強いよねということに気が付いた.今は地域の健康作りの取り組みもやっていて,今度の学会のシンポジウムでも企画した.
━━━ どうして集団の力に興味をもったんですか?
- 僕らがやっている研究は大規模集団に調査をするが,それは個人個人のデータの集まりでしょ.理論的には,個人個人は全て独立しているはず.その個人を集めたデータについて解析をしている.でも,この学校の子どもと,この学校の子どもは違うよねっていうのがあるじゃない?地域も同じことで,この地域とこの地域は,何かが違うと思うことがある.欧米は地域差がはっきりしていて,この地域は貧困地域,この地域は裕福な地域というのが明らかに分かれている.今では,地域の影響を取り除いて個別の関係をみるマルチレベル分析などが可能になった.でも日本は地域差というものをあまり考えていなかった.でも学校保健で研究をしていて,学校と学校の違いは絶対にあるなと思っていた.
インタビュー後編は,先生が歩んできたキャリアと,若手への「必ず役立つ」メッセージを届けします!(新保,町田,中村)
目に見えない概念を扱う上で、必要となる尺度開発
━━━ SOC尺度をはじめ尺度開発の研究を多くされていますが、その経緯ややりがいは何ですか?
- 尺度開発はいつのまにかたくさん行ってきましたね。多項目尺度を用いて研究をする際、きちんと検証されたものでないと使いにくいということがありますよね。自分が「こういう概念を研究的に扱いたい」と思ったときに、それに沿ったツールが見つからないことが多々あり、だったら自分で作るしかない、少し違うものを無理やり使うのも良くないと思います。そこで、尺度を開発してそれを使おうという心持ちで研究をしているうちに、いつのまにか、ということです。
- その尺度を使いたいと思っている人は自分だけでないと思うし、論文になっているとそれを引用できて、その後論文を書くのも楽になり、良いことだと思っています。実際のところ尺度開発に関する論文以外の論文のほうが多いのですが、参照される機会は尺度開発のほうが圧倒的に多いので、多く尺度開発をしている、というような印象になるんだろうな、とも思いました。
- 翻訳する場合もあるのですが、原版を考えた人も、日本での成果を知りたいと興味を持ってくれたり、自分の尺度が使われることがありがたいと思ってくださいます。その結果をお返していく上でも論文を書くということは大事なことなのではないかと思っています。
━━━ 尺度開発の研究スキルはどのように学ばれたのですか?
- 大学院修士課程のとき、当時の指導教官である山崎喜比古先生の授業で、尺度開発をテーマに「Scale Development」1)という本の輪読を行いました。それが今も、研究方法論として身に付いています。山崎先生も尺度開発にとても詳しく、目に見えない概念を測る・扱うというのが大事な領域なので、それを扱う方法は絶対に必要だということでその授業が行われていました。それでかなり勉強して尺度開発のステップを学びました。それがいまだにベースにあります。自分が測りたい概念を臆せずに尺度として開発していくというスキルは、社会科学系の研究を行う上では大きな武器になると思います。「Scale Development」は良い本ですね。ICPSR(Inter-university Consortium for Political and Social Research)サマーセミナーでもテキストとして使われていました。すでに版も重ねていると思います。
仲間との出会いから、研究観を身に付ける
━━若手、大学院生の頃にやっていてよかったと思うことはありますか?
- やっていてよかったことは、人付き合いですね。大学院OBの先輩たちや、同期、後輩たちとのつながりがたくさんありました。同じ領域で同じ研究をしている人たちとのざっくばらんな付き合いというのは、今は、勤務先の特性からいってもほとんどないです。
- 研究の話を直接しているわけではなかったのですが、研究に対する向き合い方や、研究者としての生き様、どういう研究をするのがよいのか、どういう研究がおもしろいのかという部分について、話の端々から受け取っていたり渡していたりしていたように思います。若手の時は、何が、どういう研究が大事なのか、よい、おもしろい研究とは何なのかというような見方や研究観を貪欲に培える時期なのではないかと思っています。
- ただ、先輩・後輩の関係は、研究で煮詰まったとき、直接的に手助けしてもらうのとは少し違うと思います。研究というのは結局は自分でやるしかないでしょう。ただ、先輩たちの話を聞くことで、今ある壁は大したことないのではと思えてくることもある。それに、自分を客観視できることもあるかもしれない。煮詰まったときも、救いになったかもしれない。指導してもらうというより、共有したり、自分の見方、考え方、哲学ですかね、それを磨いてくれたような気がしました。それがすごく大事なのかなと思いました。
━━━若手に期待すること、メッセージをお願いします!
- 自分はかなり特殊な道を歩んでいると思っているので、あんまり真似してほしいとは思ってないんですが(笑)。それに、自分もまだ若手といいますか、駆け出しの研究者だと思っていますので、あまり偉そうなことは言えないと思っています。
- この領域はそんなに多く研究者がいないので、この若手の会のようなつながりはすごく大事にした方がいいと思います。たまたまこの領域に来て、たまたま出会った人たちがいると思うのですが、研究室、学会で出会う人たちにしても、何かの縁だと思ってつながりを大事にした方がいいと思います。
- その一方で、同じ若手といっても年齢や性別、経歴も違いますね。また研究テーマは皆バラバラだと思うんですね。それぞれの研究で、大事な部分、研究を進めるペース、何が良いことなのか、というような研究遂行上の問題点は、各領域、各テーマで全然違うところを目指していると思います。ですので、その違いをお互いに認め合うというか、器の広さみたいなものを身に付けていくというのもとても大事なのではないかと思います。競うことは大事だと思うけども、「あの人は、、、この人は、、、」と気にし過ぎない。他人と比較しない。自分の研究は自分でしか最終的にどうなるのかわからない、自分で舵を取っていくしかないと思うので、そこを考えながら、周囲の影響を受けながら、研究を、研究者としての人生を進めていくことが大事なのかなというところですかね。
- 研究は一人ではできないので、共同研究者がいることはとても大事なことだと思います。一緒に研究できる人が周囲にいることはありがたいことだと思います。研究を進めていくうえでは、研究会議というかディスカッションは必須だと思います。一つの方向に向かいつつも、研究者である別の人間同士がお互いに刺激を与えあい、影響しあい、アイデアを化学反応させあいながら進めていくものだと思います。
- けれどその中でどこか一人でやらなければいけないことも出てくることになります。データを解析するのはコメントをもらうことはあっても基本的には一人でやります。研究室によっては分担することもあるかもしれませんが、概ねこの領域では論文の執筆は共同研究者からコメントをもらいつつも一人で書くことが多いのではないかと思います。自立した研究者というのは、研究は一人ではできないのだけど一人でやる、というあたりをうまくできる人なのだと思うんですよね。
- 若手のうちは、学位論文を書きあげるくらいまでは、先行研究や研究方法論に関する知識を身につけ、研究技術を磨くことで手いっぱいかもしれませんし、それで良いと思います。そのあと、若手研究者として道を歩み始めるころは、その辺の研究者同士の距離感だとか、研究者はどういう生き物なのか、というあたりの知識や、研究するってどういうことなのか、自分がどういうふうに研究者として生きていくか貪欲に考えていかないといけない時期だと思います。
- また、進路がなかなか決まらないという問題もあるかもしれませんし、たとえ研究機関や実践の場に就職したとしても授業や業務で追われ、それでほとんどの時間が費やされてしまう、ということもあるかもしれません。ただ、若手へのメッセージとしては、研究マインドはどのようなことがあっても持ち続けてほしい、ということでしょうか。どのような方面に行くにせよいろいろな人の後ろ姿を見、話を聞き、失敗をし、迷惑もかけながら、足元を見て自分の研究を一歩一歩進めていくことが大事なのではないのでしょうか。
若手のうちは、研究のスキルを身に付けるだけでなく、研究仲間との出会い、交流を通して、研究者としての生き方、研究観を培う上でも大切な時期であることを実感した、若手の会メンバーでした。(角谷、小島、中村)
文献
1)Robert F. DeVellis. Scale Development THIRD EDITION Theory and Applications. SAGE Publications, Inc, 2012
戸ヶ里 泰典 Taisuke Togari
2001年金沢大学医学部保健学科卒業。2008年東京大学大学院医学系研究科健康科学・看護学専攻博士後期課程修了。東京大学医学部付属病院看護部看護師、山口大学大学院医学系研究科助教、専任講師を経て、2011年4月から放送大学准教授として研究・教育に従事。
初めて研究成果を発表した想いいれのある健康教育学会
━━━ 当学会の奨励賞受賞おめでとうございます!受賞した喜びを教えてください。
- とても光栄です。現在活躍されている先輩方が受賞されてきた賞ですので、とても重みのある賞をいただいたと思っています。引き続き、研究活動、学会活動に励みたいと思います。
━━━ 健康教育に興味を持ったきっかけを教えてください。
- 日本健康教育学会は私が最初に「学会発表」をした学会でした。そのときは修士論文の内容で沖縄での開催(第12回、会長は崎原盛造先生)でした。来年の第25回学術大会も沖縄ですね。なぜ本会で学会発表をしたかというと、本会には当時の所属研究室(東大院・健康社会学教室)の先輩方が関わっており、指導教官の山崎喜比古先生(現在日本福祉大学)に勧められたことが大きかったです。
- Sense of coherence(SOC)に関する研究テーマを選んだきっかけは、修士論文のテーマを考えなければならない時期に、ちょうど所属研究室の先輩方が翻訳した「健康の謎を解く」1)という本が出版され、その本を読んで、面白いと思ったことが第一歩だったのかなと思います。また、私はうまく言葉にはできていなかったのですが、当時は対象論よりも、理論や方法論に関心があって、そのことを山崎喜比古先生が見抜いて(笑)、まあやってみたら、という話になったような気が今はします。
研究者としてのキャリア形成
━━━大学進学、大学院進学と進んできたキャリアについて教えてください!
- 大学生の時は質的研究法に興味を持っていました。卒後の進路を考える際に、当時在学していた金沢大学でお世話になっていた西村真実子先生(現在石川県立看護大学)に相談したところ、東大の大学院がよいのではないかと勧められ、質的研究について理解がある先生として何人か紹介いただいた先生の一人が山崎先生という状況でした。入学して、山崎先生は量的研究をずっとやってきていて、ここ数年興味を持ち始めて特論で取り上げていた、ということを知りました。また、自分が関心を持っていたのは、方法論のことばかりであり、具体的に何をテーマに何を明らかにしたいのか、全くはっきりしないまま修士課程が過ぎていきました。結局テーマはギリギリになって先ほど述べたようにSOCに関することになり、SOCに関する研究を調べると量的研究法を用いた、当時はやり始めていた構造方程式モデルを用いたものばかりが出てきていました。また、当時山崎先生や中山和弘先生(当時愛知県立大学、現在聖路加国際大学)が担当していた人文社会系研究のための多変量解析入門セミナーという授業を受けて、量的研究法をまず抑えることに切り変えました。こんな状況ですので、全く、右往左往というかフラフラしている院生で、先生方や先輩方は、心配や迷惑をかけたというか、こんなのでこれから先本当に大丈夫なのか、と思われていたのではないかと思います。
- 博士課程に進学できることになり、多少なり研究が評価されたことによって自信が付いてきました。大学院博士課程1年生の時期は、色々な研究プロジェクトにかかわる事ができました。色々な共同研究者の先生方と話をすることができたし、ほとんどの時間を研究に当てていました。お金はないけど、時間はある(笑)。若気の至りというのかな?(笑)。今思えばとても貴重な1年間でしたね。
- 大学院の修士課程には、学部を卒業してそのまま進学した関係で、ペーパー看護師のままできていて、ずっと臨床経験を積む可能性を心の片隅で考えていました。ただ、看護師の仕事は簡単なものではなく、20代のうちに経験をしておいた方がよいのではないかとも考えていました。そこで、大学院で休学できる期間を利用して看護師として病院で現場の仕事をしてみよう!と思い、思い切って博士課程1年が終わった段階で現場にでました。看護師の仕事は最初の1年目はとてもとても大変でしたが、慣れてくるにしたがって楽しくなっていきました。しかし、学振研究員の採用が決まったこともあって、2年で大学院に復帰しました。結局自分は研究者として身を立てていこうという気持ちが勝ったのだと思います。やはり、博士課程の最初の1年間は研究だけに集中できたのはとても貴重な時間だったと思います。この1年間を過ごしてから看護師として働いたので自分の中で選択しなければならないときに、研究者の道を選ぶことができました。休学はしていたんですが、多くの調査データを抱えていたということもあり、休日や病院勤務の合間に研究室に行って論文を書くことも継続していましたね。
━━━博士課程修了後の進路について教えてください!!
- 最初の就職は、山口大学です。博士課程3年生の11月までは博士論文に集中していました。年があけて、博士論文の審査を終えてから、指導教員のところに相談に行きました。その時は、いずれ話が出てくるはずだから、あまり急がずじっくり待つことが大事だといわれました。そうしたら翌日に、山口大学医学部衛生学教室の原田規章先生から山崎先生にちょうど人事の話が来て、これはぴったりじゃないか、ここはぜひ行った方がよいとアドバイスを頂きました。東京ではすでに自分が関わっている研究プロジェクトがいくつか走っているうえ、全く縁がなく行ったこともない離れた地で悩みましたが、先方の先生にもお会いして、基本的には教務をこなせば後は自由にどんどん研究をしてよいとも言われ、いろいろ考えた末山口行きを決意しました。
- 山口大学では医学部の医学科に所属していました。そこには基礎医学系領域の若手研究者でもある同世代の教員がたくさんいました。それに医学科の教員であっても、みな医師ではなくて他分野(理学、化学、農学など)の出身で、同じような悩み(将来のこととか、笑)をもっていました。他分野の先生なので共同研究をしよう、ということにはならないのですが、学生のときのような、プライベートで飲んだり歌ったり、愚痴を言ったり(笑)。今でも交流はありますし、素敵な仲間に出会えて、とても大きな力になりました。
- 一方で、関心領域である健康社会学領域で「一緒に研究する仲間」がほしいと思っていました。自分が中心となって行っていた研究プロジェクトが次々ひと段落すると、ペーパーを書くことに追われる一方で、次の仕事(研究)について考えるようになりました。そのようなときに放送大学に勤めていた大学院の同じ研究室の先輩でもある井上洋士先生からの誘いがありました。当時研究仲間は基本的にみな東京にいましたし、井上先生が比較的身近にいるという環境では、きっと何か良い共同研究ができるのではないかという期待もあり、放送大学に移ることにしました。
インタビュー後編は、研究テーマの尺度開発を行うに至った経緯と、若手への熱いメッセージをお届けします!(角谷、小島、中村)
文献
1) アーロン アントノフスキー:Aaron Antonovsky 著, 山崎 喜比古,吉井 清子 翻訳.健康の謎を解く―ストレス対処と健康保持のメカニズム.有信堂高文社,2001
点と点がつながっていく実感
━━━ 今の仕事に就いたきっかけと、現在行っている研究の内容について教えて下さい
- アメリカから帰国後、就職したいと考えていましたが、研究を仕事にするには先に博士号を取った方が良いと周りに強く勧められました。悩んだ末、博士課程に進学しようと決めた直後に今のポストに空きがでて、声をかけていただきました。入職するときに上司の武見ゆかり先生と3年間で博士号を取ることを約束しました。結局4年かかりましたが、周りの方々のご協力とご指導のおかげで何とか博士論文をまとめることができ、博士号を取得することができました。
- また、現在、坂戸市の食育推進委員を務めています。坂戸市では市独自の食育プログラムを平成19年度から実施しています。坂戸市の食育プログラムでは、プログラムを始める1つ前の学年、つまり食育プログラムを学習していない学年と初めて食育プログラムを学習した学年の小5、小6、中2に調査を実施し、学習効果の検討を行っています(現在継続中)。今年度は、プログラムを始める1年前の子ども達が20歳になります。子どもたちが20歳になる頃に調査を実施しようと当初から計画されていました。そのため、今年度研究面では、この調査の実施が私の最も大きな仕事となります。大人を対象として後ろ向きに子どもの頃の食事を尋ねる研究はありますが、前向きにこの年代の子どもを追跡する研究は日本ではまだ少ないので、過去のデータとマッチングできる子はマッチングして、過去と現在の食生活の状況を比較していきたいと思っています。
━━━これまでのご経験が、現在きれいにつながっているんですね
- 初めから意図していたわけでは全くないのですが、点と点がつながるってこういうことなんだ、と実感しています。
学生でいられる時間を大切に
━━━若手研究者へのアドバイスをお願いします
- 大学院生の間は悩むことがたくさんあると思いますが、悩むときはとことん悩むことが大事だと思います。とことん悩んで出した答えは後悔しない、というのが私の持論です。今教員として、学生の悩みもたくさん聞きますが、よく悩みなさいとアドバイスします。さらっと悩んでだした答えは後悔することがあるからです。大学院生は、指導教員から「あなたはどうしたいのか」と聞かれるなど、自分が決断しないといけないことが学部生よりも多いと思います。周りの人に相談しながら、しっかり悩み抜いて決断することを大事にしてほしいです。
- また、大学院生の頃は、一番論文を読む時間がしっかりとれる時だと思います。私も修士課程の時に読んだたくさんの論文がベースとなり、教員として働いてからはその上に積み上げていっている感じです。働きながらだと論文をじっくり読む時間を作るのは難しいです。学生時代が最も論文を読むことができるので、読むのは大変ですが、なるべく多くの論文を読んでほしいと思います。
━━━先生は英語が堪能ですが、それでも論文を読むのは大変でしたか?
- 大変でしたよ。分野が違えば言葉も違いますし、学部から大学院となるといわゆる研究用語に慣れるまでは大変なので、読んで慣れるしかないと思います。
━━━若手研究者に期待することがあればメッセージをお願いします。
- 若手の会があるのがうらやましいです。私が修士課程に在籍していた時には他の大学院生や、若手研究者との繋がりがあまりなかったので、私の時にもあったらよかったなと思います。
- 私の場合は、大学で働き始めた頃から、健康教育学会の栄養教育研究会に5年以上関わらせていただいています。他の大学の先生や研究者、現場の方々と交流できる場なので、とてもよい刺激となり、貴重な学びの場となっています。日本健康教育学会はこのように、他職種や他大学の先生との交流が多いのでとても勉強になっています。若手研究者の皆さんには、若手の会のような横のつながりを大切にして、お互いの研究を高め合っていくことを期待しています。
━━━これまでのキャリアで女性研究者としての強みや悩みはありましたか?
- 女子大に勤めているので、女性が多く、女性であることの強みは良くも悪くも感じてないと思います。女性だからというわけではなく、常に一研究者として何ができるかといったことを考えています。研究の分野が栄養教育、公衆栄養学であることを考えると、栄養学を専門にしていない人の視点は忘れずにいたいと思っています。私自身が違う分野から今の職業に就いているので、余計にそう考えています。学生時代の友人との何気ない会話の中でも、栄養の専門家ではない人の実態や感覚を知ることを大事にしています。これは、女性研究者だからというより栄養学に携わる研究者だからですね。そういった視点は大学の実習で学生を指導する際にも役立っています。
博士号を取得してみえてきたもの
━━━博士号を取得してから何か変化はありましたか?
- 博士論文を書いている時は、仕事の合間に時間ができたら研究をしていましたし、常に研究のことを考えていました。細切れの時間では研究をすることが難しいので、朝早い時間や夜遅い時間など集中した時間を取るようにして、論文を読んだり、論文を執筆したりして、仕事と研究の日々でした。
- 博士号を取得した後は、これまでより自分の時間を大事にして、おいしいもの食べに行ったり、旅行に行ったり、友達に会いに行ったりと、自分の時間を充実させるようにしています。
学位を取ることの重みが伝わってきました。様々なご経験を経て、充実した研究生活を送られている姿に、大いに刺激を受けた若手の会メンバーでした(河嵜、秦)。
衛藤 久美 Kumi Eto
2001年国際基督教大学教養学部卒業、2003年女子栄養大学大学院 栄養学研究科修士課程 修了。2007年ニューヨーク大学大学院 教育学部 修了/MPH取得、2013年女子栄養大学にて博士号取得。2007年~2008年ニューヨーク市保健精神衛生局 慢性疾患予防・管理部 特別アシスタントを経て2009年4月女子栄養大学 栄養学部 助教に着任、現在に至る。
若手の会が目指したい若手研究者!
━━━ 当学会の奨励賞を受賞された喜びを教えてください
- 本当にありがとうございます。私自身がうれしいのはもちろんなのですが、私以上に周りの方が喜んでくれてくださいました。だから私がこのような賞をいただけたのは、私を今まで育ててくださった先生たちのおかげだと、改めて感謝する機会になりました。
家族のコミュニケーションから食事・栄養へ
━━━健康教育に興味をもったきっかけは何ですか?
- 大学の時は、国際関係学科の中で国際コミュニケーション学専攻に所属していました。コミュニケーションや社会学・心理学など、生活や人に密着した分野に、そのころから興味があったのだと思います。その中でも親子関係や家族関係に興味があり、文献などを調べていく過程で、家族がコミュニケーションを図る場としては食事の場が大きいのではないかと考えました。そこから食事や栄養の方に関心が動いていったのですが、文系中心の大学だったので、それこそ健康教育も栄養学もないですし、図書館に行っても全然資料がないので、どうしようと思っていたところに出版されたのがこの本だったんです。「知っていますか子どもたちの食卓」という、当時女子栄養大学の教授でいらっしゃった足立己幸先生が、1999年に全国の小学生を対象に調査した内容を一般向けにまとめた本です1)。この本を手に取る機会がたまたまあり、これを読んで、こういうことがしたいんだと思いました。このことがきっかけで大学院に進学したいと思うようになり、足立先生にお話を伺いに行きました。そうしたら、翌年にアメリカで同じ調査を行う予定があり、「じゃああなたその調査で修論書けばいいわよ」ということになりました。そこから栄養学の勉強を始め、修士課程に無事入学することができました。今思うと、本当にすごいご縁だったなと思います。
インタビューから着想した研究テーマ
━━━修士課程ではどのような研究をされていたのですか?
- そういうわけで、最初はアメリカで共食に関する調査をするつもりだったのですが、同時多発テロ事件があって先延ばしになってしまったんです。どうしようかとなって、結局、修士2年の時に、子どもたちにインタビューをすることになりました。元々、足立先生の調査では、共食をテーマにしていて、誰と食べているかということが中心だったのですが、私の場合は学部の時に家族コミュニケーションを勉強していたので、共食をしている時にどんなコミュニケーションがあるのかというところまで掘り下げたいと思っていました。小学校5-6年生を対象としたグループインタビューを4グループに実施したところ、その中で少数ですが、家族は会話をしているけれども、親やおじいちゃん、おばあちゃんのような大人が話をしていて、自分はそこに入れないからつまらなかったという子どもがいたんです。そういうことは全然想定していなかったので、子どもが会話に参加しているか、子どもが自分から話すかどうかということに注目することにしました。インタビューをベースにして質問紙調査を行い、食事中の自発的コミュニケーションにフォーカスして修士論文をまとめました。
アメリカでの大学院生活
━━━ニューヨーク大学大学院でのご経験について教えてください
- 栄養教育や公衆栄養の勉強を深めたいと思い、ニューヨーク大学大学院に留学しました。そこでは、公衆衛生学プログラムの中で公衆栄養学を専攻していて、Master of Public Health(公衆衛生学の修士号)を取得するための必修の一つにインターンシップがありました。研究というよりは実践に近い形で、低所得層を対象に様々な食生活支援をしているNPO法人が行っている栄養教育プログラムに関わりました。低所得層の子どもが多い小学校では野菜・果物の摂取不足と肥満が大きな問題だったので、野菜をもっと食べようとか、野菜と親しくなろうといったプログラムを行っていました。アメリカでは、「野菜をもっと食べる」、「炭酸飲料を減らす」、「炭酸飲料の代わりに水を飲む」といった栄養教育が多かったです。アメリカ人にとっては、シンプルイズベストというか、とにかく具体的ではっきりした目標がより効果的な栄養教育になるという考え方なので、日本のような、バランスのよい食事について理解するという栄養教育はちょっと複雑だと思われているようです。私は逆に、それは日本らしさだと思っています。日本の栄養教育も素晴らしいので、日本の栄養教育をもっと海外に発信しなければいけないのでは、と感じました。
- また留学中には、先ほどお話した、日本の修士課程在学中に延期になってしまった調査を、コロンビア大学ティーチャーズカレッジ(教育大学院)のコンテント教授らと足立己幸先生の共同研究として、実施することができました。コンテント教授は栄養教育の第一人者で、行動科学理論に基づいた栄養教育の専門家です。TPB(Theory of Planned Behavior, 計画的行動理論)をベースにした共食に関する調査票を設計し、郵送法で調査を行いました。また同じ時期にコンテント教授が担当されている栄養教育の授業を履修する機会も得ました。その時の教科書がこちらになります(写真参照)。その日本語版が今年の4月に出版され、私も監訳者の1人として関わらせていただきました2)。
インタビュー後編は、博士号取得時のご経験や、若手へのメッセージをお届けします!
文献
1)足立己幸,NHK「子どもたちの食卓」プロジェクト. 知っていますか子どもたちの食卓―食生活からからだと心がみえる. 日本放送出版協会,2000
2)Contento IR.足立己幸,衞藤久美,佐藤都喜子監訳.これからの栄養教育論―研究・理論・実践の環.第一出版,2015
進路を左右したのは人とのつながり
━━━―博士課程修了後の進路について教えてください!
- 博士課程を修了した後は、宮坂忠夫先生が紹介してくださった神奈川県予防医学協会というところで1年3ヶ月ほどお世話になりました。具体的な仕事内容は、広報活動、健康教室イベントの企画、事業年報、デパートでの健康教室などかな。江の島で女性を対象にした健康教室は1から10までしっかり取り組んだね。そのあと、大学の助手になってからも対象者へのフォローアップや学会発表などもしていましたね。
- その間に東大では川田智恵子先生が講師になられて、助手のポストが一つあいたので、声をかけて頂いて、東大にもどったという感じですよ。12年半程、東大の助手をしていましたが、今では任期制が多いので長いですよね(笑)。
━━━―助手の仕事、留学をしたきっかけについて教えてください!
- 助手時代は悩みの時代でした。健康教育の転換期だったのかなと思います。健康教育なんか「時代遅れ」っていう先生もいた。日々の仕事に加えて、この悩みを整理するのが大変でした。大学院の時に一人で読んだ「Green」の健康教育計画からは大きなインパクトを受けていたけど、それだけでは、当時勢いを持っていた「健康学習」を消化できなかった。
- 助手の間に1年アメリカに留学をしました。きっかけは、IUHE(International Union for Health Education)の日本誘致が決定したこと。でも正直、日本で開催できるかわからなかった(笑)。そのとき、豊川裕之先生がハーバード大学留学の話を教えてくれた。実は事務文書の応募条件にミスがあって、応募者は自分だけで、留学は「青天の霹靂」でしたね(笑)。
━━━―留学を経て得られたものは何ですか?
- 留学から帰ってきて周囲から「自信が付いた」と言われました。今と違って、インターネットもないから、情報にタイムラグがあるし、アメリカの社会の仕組みがわかってよかった。公衆衛生分野では、日本とアメリカは全く違う。その差を実感できたところがとても大きかったですね。日本だけみていたら、なんでアメリカではこんな研究をしているのだろうって思っていたと思う。
━━━―群馬大学に就任したきっかけは何ですか?
- (これもまた)全くの偶然です(笑)。群馬大学に保健学科を設置する際、今の私のポジションが急に空席となり。群馬大学の学長から川田先生に誰かいないですかという相談が来て、私が行くことになりました。
時間と環境は大切に
━━━―若手へのアドバイスをお願いします!
- 「時間」は若い時にしかないので、「時間」を大切にしてほしい。立場が上になるほど自分の判断で使える時間が少なくなる。自分の時間を使えるのは若い時の特権。私自身、修士の頃は文献を読みあさっていました。また、環境は選ぶべきだと思う。特に若いうちは環境を自分では作れないですし、能力がある人でも、環境が悪いと伸びないこともあると思うので。例えば保健分野に関してだったら、体系的に勉強できる環境が良いと思う。修士レベルだと体系的な知識を持たずに、目の前の課題を解くためだけに研究していることが多い。研究方法に関するトレーニングが足りないとも思う。だから、いくつかの研究方法をしっかりと学んだうえで、それらを選んで使えることが理想だと思う。
実践家でも大学院の門をたたいてみてほしい
━━━―実践家が研究する際には、どのように研究手法を学んでいけば
良いでしょうか?
- 大学院に入ることが、一つの手段だと思う。特に地方であれば、大学院は社会人学生を主なターゲートとしているところも多い。実際、群馬大学大学院の保健学研究科について言えば、多くが社会人学生です。群馬大学の大学院では、志のある実践家が大学院に来て勉強し、それを職場に持ち帰って現場に広め、そこで興味を持った現場の人が、また大学院に来て勉強するという循環を目指している。
━━━―最後に、第24回の学術大会には、どのような思いがありますか?
- お世話になった衛藤 隆先生が決める最後の学会長を務めさせて頂くことが出来てホッとしている。「Community Organizingと健康教育」というテーマは、私が健康教育を始めたころから持っていたテーマ。メインのシンポジウムの、社会教育・地域福祉・地域リハビリテーションでは、分野は違うけれどやろうとしていることは皆同じで、お互いに脇を見て一緒にやった方がいいんじゃないの、という話になればいいなと考えている。健康教育、社会教育、福祉教育など、教育が付く言葉はたくさんあるが、本質的にはどれも変わらないと思うので、そういったものを共有できる場になればと思っている。副学会長の笠原賀子先生のお力もあり、無事に学会が出来そうです。是非、たくさんの方に足を運んでいただければと思います。
- (2015年3月 群馬大学昭和キャンパス 共用施設棟にて)
吉田先生から、健康教育への熱い想い、若手へのメッセージをいただきました。今が、自分の時間に全力で打ち込める「若い時」なんだなと、奮起する若手の会メンバーでした。(松下、町田、中村)
吉田 亨 Tohru Yoshida
1983年東京大学大学院修了。東京大学医学部助手、ハーバード大学公衆衛生大学院特別研究員を経て、1997年から群馬大学医学部教授。2011年から 群馬大学大学院保健学研究科教授として地域健康推進学研究、教育に従事。東京大学大学院医学系研究科、大分医科大学などで非常勤講師を務めた。
自分の経験や人との関わり
━━━― 健康教育を勉強し始めたきっかけを教えてください!
- 私が高校3年生のときは工学部に進むつもりでしたが、浪人中に物理と数学はこれ以上できないなと感じて断念。なにをやるか決めないまま東大理科二類(農学部・生物系)に入ったけれど、「農業やってもなぁ~」ということで、「みんながやらない、なにか新しいことをやってみよう」という気持ちが強くて、その選択肢の一つが保健学でした。最終的な候補に残ったのは、教育学部の健康教育学と医学部の保健学科でした。大体自分で歩んできた道を選びたいことが多いじゃないですか?ある程度、自分の経験があるから。それで、保健学のなかでも学校健康教育を中心に考えたのでしょうね。
- そもそも大学を卒業した後は、研究者になるなんてこれっぽっちも思ってなかった。東大って変なところで、1年生になったばかりのクラス30数名で、研究者になりたいって奴が4-5人いたのね。研究者って何するんだって感じだった!(笑)当然、保健学科へいっても4年生終わったら就職するつもりでいたのですけど、いろいろと事情があってこんな事になってしまって…。
━━━― いろいろな事情とは?
- 東大の保健学科の前身として、普通の入学とは別枠で入試をして、保健婦・看護婦を養成する4年制の衛生看護学科があったんですよね。この学科を改組して保健学科が作られた。しかし、保健学科は医療上の資格をなにも出していない。私はそんなことを知らないから、当然保健学を勉強して就職して、保健学に関係する仕事をしようと思っていたんですよ。ところが、医療上の資格がないでしょ?例えば、衛生行政に入るとしたら事務職で入るしかない。事務職で入ると保健所長にもなれない。じゃあどうしようかな?って思って、保健学科の先生(豊川裕之先生)に相談したら「健康教育をやりたいんだったら宮坂先生のところへ行けよ」という話になって、それで大学院に行くことにした。ついこの前、豊川先生にこの話をしたら「そんな話、したっけ?」って、数多くある相談の一つにすぎなかった(笑)。
人と関わる仕事が健康教育
━━━―健康教育に興味を持った理由を教えてください!
- 私は小さい頃にリウマチ熱という病気をしてて、幼稚園の頃2年間は、冬の間、家で寝ていた。病気の体験があって、病気を意識せざるを得なかった。それから小学校1年生のときに、同じように心臓が悪い子がいて、その子と一緒に小学校1年生のとき体育はずっと見学をしていた。でも、その子が小学校4・5年生くらいに亡くなったという話を聞いて。当時、家の事情などに恵まれて、ちゃんと治療してもらえたんだなという気持ちが凄くあって、健康や保健の方に行った気がします。
- 私の通った高校はちょっと変わった高校で、現在でいう総合学習の時間があり、そこで健康に関することをやっていて、その時の問題意識が残っていて、また、直接人に関われる仕事をしたくて健康教育かなという感じだったかな。当時、保健学科で社会との直接的な関わりや、普通の人・一般の人と関わりをもった仕事ができるところは、私がいた保健社会学だけだったのかなと思います。
- (2015年3月 群馬大学昭和キャンパス共用施設棟にて)
インタビュー後編は、博士号取得から現場での仕事を経て現在に至るキャリアと若手への熱いメッセージをお届けします!
自分の関心だけでなく、周囲の人々との出会い
━━━健康教育に興味をもったきっかけは何ですか?
- 公衆衛生院にいた頃の影響が強かった。第1に久常節子先生を初めとするスタッフ。特に久常先生は当時から日本の保健師のリーダー的存在だった。第2に公衆衛生院・修士課程の栄養士や保健師の同級生。「医者だからって偉そうにするな。現場のことを知っているのは、保健師であり、栄養士であり、私たちこそが住民の声を常に聞いている」と、何度も叱られた。こういった人たちにはそれまで出会ったことがなく、強い刺激を受けた。
- また、久常先生の推薦で医学書院の保健師や看護師テキストの執筆を始めた。依頼された健康教育について書くために大いに勉強した。当時ヘルスプロモーションを引っ張っていた島内先生や岩永先生とも公衆衛生院で会う機会を得、ヘルスプロモーションが日本に入ってきた頃の情報を得た。97年には、プリシード・プロシードモデルの第2版のテキストを岩永先生たちと翻訳した。2005年に第4版を。そうして、健康教育、ヘルスプロモーションの理解をどんどん深めていった。
- 当時の公衆衛生院は建物の造りがとてもよかった。教室のドアはたいていいつも開けっ放し。学生でも誰でもいつでも自由にいろんな先生の部屋に入れる雰囲気があった。動物実験はしていたけれども、ふらふらといろいろな先生のところに行った。生きた公衆衛生を学べる構造だった。また、保健所で生活習慣病のための講師をやることもあった。そこで家庭の主婦等が、実際どういう悩みを持っているのかを現場で体験した。こうして理論と実践を、公衆衛生院を基地として学べたことがよかった。
海外での経験が将来の夢への意志を強くした
━━━―若い頃に経験して良かったことは何ですか?
- 学生時代、海外に3回行っている。最初は大学2年生のとき、日米学生会議でアメリカへ。大学4年生のときに、インドに一人で2か月。それから5年生のときに台湾に1~2週間。
- 一番インパクトの大きかったものはインドの一人旅。南インドの農村開発センターでインターンに行った。そこで、現地のジョゼフ・ジョン牧師やプレム・ジョン医師夫妻と一緒に学校保健をやった。学童の疥癬症に対するケースコントロール研究。現地の人の役に立つ研究だった。研究をやりながら南インドも旅行した。その経験をもとに将来途上国で自分はやれる、途上国で働こうという意志を強く持つことができた。その意味では海外に一度出て原体験をしてみることが大事。先進国でも途上国でもいいけれども、単に海外旅行をするだけでなく、そこで根を張って仕事をしている人の話を聞く。それが自分のその後の歩みを決定づけたと思う。
- また、大学の頃、途上国の仕事をしたいと思っていたので、いつかはWHOに入りたいという気持ちが強かった。そのため、英語を相当しっかり勉強した。自転車に乗りながらヘッドフォンで常に英語を聞いていた。ただ学生時代は十分にやり切れなくて、公衆衛生院に入ってから始めたのが、英語のライティング。ライティングのコースに出ていた。英作文と違って、パラグラフ・ライティングなどは直接指導を受けないとなかなか自分のものとして身につかない。しかし一度身につけば一生役に立つ。
- そして、芸術としては茶道をやっていた。昔やっていた柔道の影響で何とか道というのが好きだった。海外に出て柔道ができなくなって、裏千家の人と出会ってやるようになった。他にも、禅寺での座禅やキリスト教など、宗教的な雰囲気に触れていた。日本の伝統的な華道とか茶道とか、飾りじゃない、本来持っているものの良さに触れる。そういうのも長い目でみれば重要な体験だったと思う。
自分の可能性を大胆に広げること
━━━―最後に、若手に期待すること、メッセージをお願いします。
- 殻を突き破る。自分に制限をつけない。自分は○○大学だからあれができないのではないか、自分はこういう専門分野にいるからこれはできないのではないかとか、できないことにこだわらない。できることをもっと広げていく。自分の可能性をもっと大胆に広げていく。それが若い人にとっては大事だと思う。自分は今でもそんな気持ちでやっている。
- (2014年12月 東京大学本郷キャンパス 国際地域保健学教室にて)
神馬先生から熱いメッセージをいただき、今できることはなんだろうと改めて考え、最大限のことを全力で取り組もうと心に誓った
若手の会メンバーでした。 (小島、新保、松下)
神馬征峰 Masamine Jimba
1985年浜松医科大学卒。飛騨高山赤十字病院、国立公衆衛生院、ハーバード大学公衆衛生大学院を経たのち、1994年からWHO緊急人道援助部・ガザ地区/ヨルダン川西岸地区事務所所長。1996年からネパール学校・地域保健プロジェクトリーダー。2001年からハーバード公衆衛生大学院、2002年から東京大学大学院にて国際保健研究・教育に従事。
希望と違う仕事をやり続けた7年間
「やるからには一人前になれ」
━━━これまでのキャリアとそれを選択したきっかけを教えてください。
- 最初に勤めたのが飛騨高山の赤十字病院。いくつかの有名な研修医病院を受けたが、全部落ちた。たまたま求人をみつけたところが高山赤十字病院。面接で院長と話が合い、2年間就職した。ただ学生の時から国際保健の仕事がしたかったので、いつか途上国の仕事がしたいと思っていた。
- 浜松医大の学生だった時、公衆衛生学教室に出入りしていて、教授に将来結核の専門家になりたいと話していた。赤十字病院にいたころ、その話を覚えていた教授が国立公衆衛生院で呼吸器関係の仕事のポストが空いたから、結核と関係があるだろうし、行きなさいと言ってくれた。学生時代お世話になった伊藤邦幸先生に相談したら、「いいんじゃないか」というので行くことに。東京に行ったら国際保健に近い仕事ができるかもしれない。また公衆衛生は一人一人の患者さんを診るよりもたくさんの人達の予防ができる大事な分野。加えて、東京に行っても大好きだった臨床は続けられると思っていた。
- ところが行ってみると全然話は違っていた。まず、臨床ができない。しかもやり始めた仕事はネズミの動物実験。一番嫌っていたこと。ただ入ってしまったからには仕方がなかった。それでも、動物実験をやりつつ、公衆衛生の諸先生と知りあえた。実験をやっていたから、数字の扱い方とか、基本的な統計とか、そういう勉強もしっかりできた。
- とはいうものの、それを一生続ける気はなかった。当時、東京大学の公衆衛生学教授だった山本俊一先生に相談したところ、自分の経験を語ってくれた。公衆衛生学教室入局後しばらくして教授が代わり、山本先生はそれまで関心がなかったツツガムシ病の研究をやることになった。ツツガムシ病はネズミを媒介して感染する病気。日本くまなくネズミ捕りを10年くらいやって、日本で「俺ほどネズミ捕りが上手な人はいない」というくらいになった。それと同時に疫学のプロとして成長した。「やるからには一人前になれ、ネズミ取りよりはいいだろう」、「自分の専門分野で一人前でない者が何を言ったって誰も聞いてくれない。とりあえず今の分野で一人前の論文が書けるまでそれをやれ」と助言してくれた。それにしたがって、ネズミの研究をずっとやった。どれだけやったかというと7年間。
つながりからのオファー
自分がしたいことを人に話す
- ただ途上国へ行きたいという気持ちはずっとあった。でも、7年も経つとそろそろ無理かなって思いだしてくる。そんなある時、ボストンの寿司屋でA型肝炎をもらって、日本に帰ってきて約1か月入院。退院後は以前ほど仕事ができなくなり、辞めてもいいかなと思い始めていた。
- そうしたところに、公衆衛生院の元同級生でWHOに行っていた友人から、WHOの仕事に就かないかという誘いがあった。NGOや赤十字で働かないかというオファーも来た。当時から結核研究所にいた石川信克先生に相談したところ、「WHOにはなかなかいけるチャンスが巡ってこないからWHOにしたら?」という。そこでWHOの仕事を選んで、ガザ地区へ行った。ガザ地区とヨルダン川西岸地域で2年間働いて、その後どうするか。残りたい気持ちはあった。しかし、当時WHOの財政基盤が悪化しており、WHOに留まらない方がよいと言われていた。そこでネパールのJICA・日本医師会によるプロジェクトに移った。当時ネパールでJICAプロジェクトの専門家をやっていた先生が後継者を欲しがっており、これは良いと思ってネパールに行くことにした。
- ネパールで働いて5年目、東大のこの教室の前任である若井教授がネパールにやってきて、現職を紹介してくれ、応募することにした。特にネパール行きは自分で選んでというよりは、話が来て飛びついた。大学についてもそれしか選択肢がなかった。ただそのためには、いろんなところで、自分はこれがしたいと主張していたことがきっかけになったと思う。公衆衛生院の時も途上国で仕事がしたいと友人に話していた。相談した先生たちはキリスト者医科連盟とか、キリスト教海外医療協力会というNGOで知り合った先生たち。そのつながりで多くの機会を得た。学外のNGOつながりが大事だったのかもしれない。
━━━複数の選択肢があった時はどのように選択しましたか?
- 結構直感で選ぶ。ガザの時は面白そうだなと思って決めたし、ネパールについては、学生時代からの諸先生の影響を受けていた、いつか行きたい国だった。直感ではあるけれども、その前に、直感を強めてくれた準備状況はあったと思う。
- (2014年12月 東京大学本郷キャンパス 国際地域保健学教室にて)
インタビュー後編は、健康教育へ興味をもったきっかけや若手への熱いメッセージをお届けします!